どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《戦後70》広島巡礼⑨-広島市営「平和アパート」/欲を言ったらきりがなかった…戦後すぐの暮らし

-No.0636-
★2015年06月19日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 1562日
    (高倉健没から →  221日
★オリンピック東京まで → 1862日





◆白昼のコンクリート集合住宅

 追悼平和祈念館を訪れることで、このたび広島巡礼の大目的は達しました。
 しかし、ぼくにはまだ充たされないものがありました。
 きょう一日は、もっともっと、蒴果から種子が弾けて飛ぶほどに、充実しなければすまない気分でした。

 平和公園の、平和大通りに面したタクシー乗り場に並んで。
 「昭和町の平和アパートまで、近くてすみませんが」
 ぼくが運転手さんにそう言ったのは、目的のところまでは2キロほどで、歩けば歩ける距離だったからです。
「いぇいぇ、この陽盛りを歩いて熱中症にでもなったらタイヘン、近いところだって行かせてもらいますよ、わたしらにも少し稼がせてくださいな」
 運転手さんは気さくな人でした。

 昭和町は、対岸に広島市現代美術館のある比治山公園を望む、京橋川西岸
 京橋川は、原爆ドーム相生橋より上流から分れた太田川の支流のひとつです。
 「これでしょう」と運転手さん。
 「あぁ、そうです、これです…きっと」とぼく。
 はじめて見るのに、幼なじみに出逢ったみたいでした。

 1階出入り口の屋根のブルーの縁どりが、なんともレトロな。
 当時はきっと「モダン」と呼ばれたにちがいない。
 この市営平和アパートのことを、ほかの町の人はほとんど知りませんでした。
 広島も、すっかり都市でした。

 ”偏狭”とひとくちに言われることが多い田舎や在のほうが、じつは周辺への目配りがゆきとどいています。
 およそ関心の”偏狭”なことでは、大都市にまさるところはありません。
 ”偏狭”な都市に”相互扶助”は期待できませんし、ひとたび災害に遭えば”利己主義”と”パニック”の巣窟です。

 ここに平和アパートが建ったのは、戦後復興の足どりもまだまだ、おぼつなかった昭和24年。
 鉄筋コンクリート(RC)造りの目新しさが、竣工当初は大いに注目された、といいます。
 なにしろ住宅難が最大の課題だった終戦直後でしたから、1947年、東京・高輪に戦後初のRCアパートが建ってから間もない、広島でのRCアパート着工は画期的なことだったでしょう。

 ぼくは、広島原爆にゆかりの詩人、峠三吉もこのアパートの住人だったと知って、ふと興味をひかれたんです。
 その三吉の詩『河のある風景』の一節を刻んだ碑が、アパートの集会所脇にありましたが、背の低い碑文は屈んでみても読みにくいものでした。

 日中のアパートは静かでした。
 棟の入口から覗くと、ほの暗い階段が上の階につづいていました。
 タクシーが乗り入れてきて老婆を下ろすと、その姿はスッと暗がりに消えました。
 2階の窓の張り出しに、なにかの鉢植えが枯れていました。
 また別のタクシーが乗り入れてきて、誰かを乗せて走り去りました。

 ぼくはガキの頃から、川崎の市営住宅に(ただし戸建でしたが)住んでいました。
 不自由なところの多い、小ぢんまりした住まいでしたが、狭いながらも庭付きで、周囲の人たちからは羨ましがられたものでした。
 両親は、この家を土地付きで買い取って、新しい自前の家を新築するのが夢でした…。

 ぼくは長じてから、何十年ぶりかで、かつて我が家(両親が夢をかなえた家)のあったあたりを歩いたことがありました。
 遊び歩いた道や広っぱも、近所の屋並も、子どもの頃の印象よりはるかに、せまっ苦しかったのを、想いだします。