どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《戦後70》広島巡礼⑧-浮かびあがる被爆者の面影/同期の友との思いがけない邂逅のことなど…

-No.0635-
★2015年06月18日(木曜日)
★《3.11》フクシマから → 1561日
    (高倉健没から →  220日
★オリンピック東京まで → 1863日

*選挙権を18歳以上がもつことになった。若者たちには、どうか、大人たちの投票行動をマネなんかしないで、それぞれが自分なりのチェック法を身につけてほしい。なぜなら、いまの大人たちの選挙権意識は、ざんねんながら十分とは言えず、まだ発展途上でしかないからだ。参考にはなっても、あまりいいお手本にはならない。選挙権は権利に違いないけれど、おなじくらいに貴重な自省のチャンスでもある*






エノラ・ゲイは山から海へ…

 この広島巡礼に旅立つ前に、ぼくは友に「広島に行ってくる」旨のメールを送りました。
 彼が広島出身でしたから…それだけの軽い気もちで。

「ぼくも先日、広島に行って来た」
 という、友の返信が、以下、ぼくには衝撃でした。
平和公園の、慰霊碑の横の、小さな資料館に行き、そこに置かれている母の写真と被爆のメモを見て、原爆ドーム横の島病院も訪ねてきました」

 ぼくたちは大学の同期で、入学早々から大学紛争の渦に巻かれながら、それぞれの青春を懸命に生きてきました。
 盃かたむけつつ議論に熱をあげ、異性にもおおいに熱をあげたものでしたが、いま思い返せばその頃、おたがいさまに自らの過去を振りかえったり、語ったりすることは、ほとんどしなかった。
 いまに懸命で、いまがすべてでした。

 彼が広島出身で、いっぽう、ぼくは東都ながら、ヒロシマの原爆に心をうごかされていたのですから、彼と原爆とのことに思い及ばなかったわけはないのですが、じつはなにも聞いた覚えがありませんでした、じつはその話題にふれることを避けていたのかも知れません。

 卒業後、ラジオ局ひとすじに務めあげた彼は、そのメールの結びに、自分もこの春、70歳の誕生日をもって”撤退”、”自由人”になったと伝えてきました。
 ぼくは「長い間ごくろうさま」のメッセージをのこして、旅だってきたわけです。

 彼のいう小さな資料館は、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館でした。
 きのうの記事でお話した「二重被爆」の、記録を掘り起こす資料が保管されていたところです。

 まだ梅雨入り前なのに、すっかり夏の陽射しのなか。
 冷たいペットボトルの水に喉を潤し、生き返った気分にきりかえてから、平和祈念館を訪れました。

 入口のモニュメントが原爆投下時刻の8時15分を表わし、その周囲にたくさんの被爆瓦と噴水が配されているのは、被爆の渇きに水を求めながら亡くなっていった人々の霊を慰めるもの。

 時を遡る…時計の針と逆回りのスロープを下りた地下の追悼空間、ぐるりの壁面を構成するのは爆心地島病院付近から見た被爆後の街並みのモノトーンのパノラマ画像と、死没者数のタイル。
 その下には、街並みのパノラマ画像にあわせた被爆当時の広島の町名、下に行くほど爆心地に近づきます…。

 隣接する遺影コーナー。
 友から教わった母堂の名、検索画面に入力すると、面影が浮かび上がって。
 顔かたちが、とくに目もとのあたりが、彼によく似ていました。
 被爆当時、彼の母上は28。被爆したのは、教師をしていた学校へ向かう途中の、爆心地から4.1キロ地点。
 生まれて間もない彼を抱いていた母上は、そこからすぐに家へ引き返したそうです。

 (当時としては遠い方か…と彼はいいます、その彼もいうまでもない被爆者でした)

 母上はそれから、二年ごとの被爆影響を診る定期検査を受けながら、ご自身は生をまっとうされて亡くなりました。

 2002年にできたこの追悼平和祈念館では、いまも原爆死没者の登録を(希望があれば非公開も)受け付けています。

 (それは長崎でも、沖縄でも同じ…戦後はまだ終わっちゃいません)

 「しまってはおけない 記憶がある」
 「しまってはいけない 記憶もある」
 原爆体験記を募集するチラシに、いいコトバを見つけました。

 そして、もうひとつ。
 画像・映像資料と、記録文書類や出版物が見られる体験記閲覧室の書棚から、ぼくは貴重な情報をもらいました。
 それは、アメリカで出版された子ども向けの原爆の本でしたが、そのおしまいの方のページに、原爆投下爆撃機の飛行ルートが示されていたのです。
 それによると、原子爆弾リトルボーイ」を抱えたB29「エノラ・ゲイ」は、太平洋上から四国、瀬戸内海を越えて、いったん内陸に入ってから旋回、かずかずの支流を集めて流下する太田川に沿って下り、海に出る寸前の、元安川を分ける相生橋にいたって”投下”のスウィッチを押した…と。

 長崎でもそうでしたが、好天の暑い日を照り返す川の輝きが、爆撃機を目標へと導いたのです。

 ぼくは追悼平和祈念館を出て、元安川に架かる橋を渡って歩きました。
 土手のカフェ・レストランにオレンジ色あざやかな柑橘類の山を見て、少し気が明るく軽くなるのを覚え。
「帰ったら、ひさしぶりに一杯、やろうぜ」
 友に呼びかける気分になっていました…。