どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《戦後70》広島巡礼⑦-”二重被爆”という過酷/ 慰霊碑の窓から望める原爆ドームがウツクシかった…

-No.0634-
★2015年06月17日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 1560日
    (高倉健没から →  219日
★オリンピック東京まで → 1864日






原爆死没者慰霊碑の前で…

「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」
 ぼくは声を低くして読みました、前にもやはりそうしたように。
 「繰返しませぬ…」の旧い仮名づかいが、力づよい語感になっていることに、あらためて気づきました。
 すっかりかわったいまの言葉づかいが、ずいぶん軽くなっていることにも…。

 (この碑文の誓いが軽んじられたまま、なことについては、前にも溜息まじりにふれました)

 ぼくの学んだ大学の新聞科には、当時『不緘黙』という機関紙がありました。
 言論人として「黙らず」の決意を顕したものでした。
 気負いすぎもありましたが、それなりの責任感はいつも頭にありました。
 口にするにせよ、黙るにせよ、青春がかかっていたと思います。

 埴輪の屋形風というか、乗馬の鞍のように中央がくびれた慰霊碑の窓からは、平和の灯の向こうに原爆ドームが…。
 ふと、美しく望めたことに、ぼくはおどろきました。
 気がつけば、慰霊の焼香台まで、目だたないしつらえになっていた。

 そういえば、慰霊碑そのものの在り方も、もちろん原爆ドームも、先に訪れた50年も前とはとんと違って、あたりまえでしょうが、見ちがえるほどきれいに整備されていました。
 慰霊に持ち寄られた千羽鶴なども、もっと慰霊碑に近く寄り添っていたと思うのですが…いまは、少し離れた原爆の子の像のほうに、ビニール囲いのスペースに、順序よく、とりまとめられていました。

 ”整美”というのか、”整備”か”整理”か、いずれししても、整えなおされることには”忘却”がつきものです。
 「忘れない」ために、それと気づかずに「忘れようとする」はたらきかけがある、それが人為というものなのでした。

 (二重被爆…か)
 慰霊碑に掌をあわせ、ぐるりの空を仰いで、ぼくは想いました。

 その事実に気づかされたのは、4月14日火曜日、東京新聞の特集記事『平和と軍需-長崎の70年-』第1回「矛盾の歩み」。
 記事によれば、三菱重工長崎造船所の製図工だった人が1945年8月6日、同僚二人と出張中の広島造船所で被爆。
 (その頃、造船能力の拡大を急ぐ軍部の求めに応じて新設されて間もない広島造船所には、長崎から応援に派遣される人が多かったという)
 火傷を負って戻った長崎で、3日後に再び被爆、「世界一、不運な男」と呼ばれた…と。

 しかも。
 「二重被爆」に遭ったのは、彼ら3名にとどまらなかった。
 広島原爆死没者追悼平和祈念館には、広島・長崎での被爆を記録した手記や書籍のリストがあり、これを手がかりに取材班が把握したところでは、ほかに少なくとも16人の造船所関係者やその家族がいたという。

 これは、ただに「不運」で片づけられることではないでしょう。
 (奇しくも…)と、(翻弄された…)の間を、つなぐコトバが見つからない。

 「私たちは矛盾なかにいる」と、二重被爆した父のもとに育った、その娘さんが言ったという。
 「三菱が長崎を支えていて、そのおかげで私たちは平和運動ができている」
 それにくらべたら半端なものだけれど、ぼくもまた矛盾のなかにいる。

 修学旅行の一団がドヤドヤとやってきて、ぼくは、碑の前から追い立てられました。
 「はいッ、後ろの者は前の者の肩の間から顔をだすように、そうしないとせっかくの記念写真に写らないぞ、わかったかァ」
 引率の責任教師らしい、武骨な男が怒鳴り散らす。
 (ヤカマシイ…やぃ)
 
 園地を遠ざかりながら、緑のなかに無心に笑みこぼれる母子の姿、そんな、せめてもの救いでもなかったら、もうぼくはけっしてこんな場面には遭遇したくない…と思っていたのでした。