どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《戦後70》広島巡礼④-”広電”で宮島口から市街へ/そこに待っていた惑乱をさそう情景…

-No.0631-
★2015年06月14日日曜日
★《3.11》フクシマから → 1557日
    (高倉健没から →  216日
★オリンピック東京まで → 1867日



◆電停「原爆ドーム前

 6月2日。
 その朝、宮島口駅から3輌連結の”広電”(広島電鉄線)に乗った。

 ”広電”は、郊外電車と市街電車、二つの種類の路線をあわせもつ、広島市民の足。
 きのうはJRに乗ってきたので、きょうは”広電”、くらいの軽い気もちで。
 
 山陽線とほぼ並行して走る”広電”は、市街電車らしい駅の多さ。JRの2倍から3倍はあろうか。
 その駅間を、かなりのスピードで、猛烈に揺れて往く。
 窓外に流れる景色を目で追っていたら、隣りの方が親切に教えてくださる。
 「旅情なら、こっちでしょうけど、時間は倍以上かかりますからね、急ぎのときはJRですよ」
 市電郊外線、猛烈走りのワケが知れた。

 その”広電”も、広島市街に入ると、車や人の往来が多くなるにつれて、徐々にスピードダウン。
 向こうから来る市電の色も形も違うので、別の市電かと思いきや。
 「広電の電車は、京都とか大阪とか福岡とか、いろんなとこから来てますんですわ、えぇ、みんな”広電”ですわ」とのことだった。

 「次は、原爆ドーム前」のアナウンスに、ドキッとしながらまわりを見たけれど、ほかの乗客に反応らしきものもない、それがフツウなんだろうけれど…。

 原爆ドーム前の電停は、太田川(本川)に架かる相生橋のたもと。
 すぐ目の前の木立のなかに、原爆ドームが佇んでいた…。

 再会…にもかかわらず、こんどもやっぱり不意な感じの出会いに、戸惑う間もなく、若い外人観光客のグループに行く手を遮られた(ぼくには正直そう感じられてしまった)。
 ドーム正面をふらふら動きまわって、声高にしゃべくったり、デジカメを向けたりしている。
 ぼくは(邪魔ダ)と思って、すぐに、そんな情緒的にすぎる自分をもてあました。

 ドーム前、園地のベンチに、散歩と思しき市民の、そんな情景を黙然と見守る姿が、さらに惑乱に輪をかけた。
 長崎の原爆資料館で、〈太っちょ〉原子爆弾の模型の前に、ピースサインで立つ韓国人観光客の姿があったことを、ぼくは即座に思いだす。
 それがどうのというより、きっとおなじようなことをするのだろう、日本人の若者のことが思われると、そこでパタンと、思考がとまってしまった…。
 
 この4月3日。
 核拡散防止条約(NPT)、再検討会議で議長を務めるアルジェリアの外交官タウス・フェルキさんが、広島の原爆資料館を訪ね、原爆慰霊碑に献花したことが報じられた(フェルキさんはこのあと長崎も訪問)。
 これには、事務局長を務める国連軍縮部、大量破壊兵器課長のトーマス・マクラムさんも同行。たいせつな、この会議にのぞむ決意のほどを見せてくれたのだった。
 けれど…。

 ニューヨーク国連本部で開かれた肝心の会議本番では、4週間をかけた議論の末、中東の非核化構想をめぐる米英の反対に遭って、最終文書案の合意にいたらず、ついに「決裂」。「核兵器の非人道性」を認めながら、「核なき世界」への前進をはばまれ、核兵器廃絶の気運は後退を余儀なくされた。
 「決裂」の宣言をするフェルキさんの、苦悩の表情には疲労の色が濃かった…。

 そんなことまで脳裏をかけめぐると、もう、ぼくも、ここはいったん身を退くしかなく。
 いちカメラマンに徹して、原爆ドームのきょうに、レンズを向け、シャッターを切りつづけた…。