どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《戦後70》沖縄巡礼⑲-”嘉手納”というアメリカ籍/ドドドドッヴィヴィヴィヴィと襲いかかる爆音…

-No.0610-
★2015年05月24日日曜日
★《3.11》フクシマから → 1536日
    (高倉健没から →  195日
★オリンピック東京まで → 1888日





◆危うくハンドルをとり落としかけ…

 4月16日。
 4日目の沖縄巡礼は、しかし、もう明日は帰途につくという日になっていた。

 夏を思わせる午後の陽ざかりのなか、嘉手納空軍基地に立ち寄る。
 といっても、ぼくに基地に立ち入れる特別な許可とか、ましてや招待などあろうはずもなく…つまり傍にある「道の駅かでな」から覗き見るにすぎないのだったけれど…。

 いまは辺野古の新基地問題に注視がそそがれ、またほかにもあちこちに基地だらけの沖縄だけれど、それでも歴史的に嘉手納の(悪)名はいまも断然の大将格に違いない。
 幹線国道58号に面してゲートが睨みをきかせているのだから、いやでも目立つし、ぼくたちのような旅の者でさえ、きょうでもう都合3度も門前を通ることになる。

 一等地の広大な面積が、地図では不自然に空白になっていることで、基地と知れる。

 ぼくが、戦争に行った叔父さんからもらった戦時中の”大東亜圏地図”、内外の軍事施設所在地はすべて、異様な空白になっていたのを思いだす。
 それが虫喰いのように点々とあり、たとえば厚木周辺あたりとか、めぼしいところになると、虫喰いでないところのほうがわずかだったりして、とてもとっても、薄気味がわるかった。

 嘉手納といえば、ベトナム戦争
 空爆”枯葉作戦”の重量爆撃機や輸送機群が離着陸を繰り返したところでもある。

 ぼくら東京の映画館で、そのドキュメンタリー・フィルムを見るとき、頭上すれすれを重たげに飛び去る爆撃機からは、映画館のスクリーンはもちろん壁面までも、ビリビリッと震えあがらせる轟音が響きわたったものだった。
 
 バーチャルではない、超弩級迫力の凄まじさに、悲鳴をあげる女性客もあった。

 沖縄の人々の日常は、いうまでもない、そのまさに真下に、ありつづけた。

 ぼくは、その記憶を追ってきたわけだ、けれど。
 通りすがりに、まさか、そんなにつごうよく現実を体験できようとは、じつは思ってもいなかった…。

 見知らぬ基地の町の市街地で方向感覚を見失い、そこらをウロウロしていたとき。
 突如、ドドドドッヴィヴィヴィヴィと真後からの衝撃に、首をすくめるゆとりもなく、ボクの実感では、思わずハンドルをとり落としかけ…前後に他の走行車両があったら、ほとんど衝突しかけていたに違いないきわどさで、なんとか”急”だけは避けるようにブレーキを踏んで、やっと路肩に車を寄せた。

 その直ぐ目の前のフロントガラスを、覆い隠さんばかりの低空で、どんな種類かもわからない機影が嘉手納の滑走路に進入していくところだった。

 ぼくは、いま思い知ることができた、ここはまちがいなく、戦場がすぐそこにある。
 ここ沖縄には戦後70年、1日として平穏な日常はなかったのだ、と。

 観光スポットの「道の駅かでな」。
 屋上の展望場からは、通りひとつ隔てただけの間近に、緑の芝生を敷きつめたなかに、ゆとりをもって延びる白い滑走路(4000メートル級が2本)、東京ドーム420個分という軍用飛行場の威容が、見える限りは、いちおう丸見え。
 現実とは思えない、不思議な眩暈感覚が…あったのはボクだけだろうか。

 観光バスが次々に駐車場を埋め、一般の団体さんや高校生の一団がどやどや詰めかける。
 機影を追うカメラマンも半端な数ではなく、ここでは、そのほとんどが飛行機マニアかと思われ。
 「一日待ってれば、あたりはずれはあるけど、相当の収穫はあるよ」とのことだった。

 高く巡らされたコンクリート壁の手前、道路との隙間に、細々と家庭菜園ふうの畑が耕されており…これもいつかニュースかなにかの映像で見た覚えのある風景。
 ”黙認耕作地”。
 しかし、以前とはちがうところがある…のは、そこに〈貧しさ〉や〈虐げられ〉たり〈抵抗する〉面影は感じられず、〈どっこい負けない〉逞しさが見てとれることだった…。

 めげず、しぶとい。

 軍用機の飛来を待っている間は、基地にまったく動きなく、人影すら見えないので、あきらめて駐車場に下りたら、途端に、爆音からしてそう大きくはない一機が飛来、展望場を見上げると、カメラが一斉に機影を追っている。

 ざんねんがら嘉手納は、いまも”戦後沖縄の原点”でありつづけていた…。