どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《戦後70》沖縄巡礼⑭-洋上遥か本土をにらむ辺戸岬/これまで”復帰”にあたいする待遇があったか…

-No.0601-
★2015年05月15日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 1527日
    (高倉健没から →  186日
★オリンピック東京まで → 1897日








◆遠い沖縄…さらに僻遠の辺戸岬…

 退かない、たじろがい、辺野古をあとに。
 北へ、走る。
 すてきな原風景、うちなんちゅう(沖縄の人)たちとふれあえたせいもあり、陽あたり穏やかなせいもあって、すこぶる気分がいい。
 (じっさい、このあと撮ったプライベートの写真うつりが、あきらかに違って表情も活き活きと冴えていた…)

 東海岸に沿った国道331号は、やがて平良湾で左に折れ、西海岸へと横断する。
 平良湾より先、東海岸(東村)の道路状況はよくない。

 331号が基幹の国道58号と合流する大宜味村塩屋。
 50年前、1964年の東京オリンピックのとき、ギリシャからの聖火を乗せた飛行機を、当時まだアメリカの施政権下にあった沖縄の人々は那覇空港に出迎え。
 日の丸の旗(祝日以外には掲揚が許されていなかったが、この日にかぎって黙認)に、本土なみ復興復帰の願いを託した。

 沖縄での聖火リレーは、本島の247.1㎞を151の区間に分け、そのほとんどが戦争遺児だった計3473人のランナーによって行われたわけだけれど。
 西海岸まわりと東海岸まわりとで、本島をグルッと廻れたのも、ここ塩屋まで。
 これよりさき北部は、除外された。

 それでも…2020TOKYOの聖火ふたたび、と願う人々の胸には、「聖火リレーと一緒に沖縄の現状を見てもらえるから」という。
 現状とは、いうまでもない”米軍基地が居坐る島”だ。

 国頭〔くにがみ〕村に入る。
 いうまでもない、ヤンバルクイナの故郷だが。
 旅人のぼくは、ナニかがある…待っている気がする、端っこを目指す。

 本島北端の辺戸岬。
 右、太平洋。左、東シナ海。北、ヤマト世〔ゆ〕の本土。

 サンゴ質の絶壁なす岬上の台地からは、まだアメリカの統治下にあった頃、”本土復帰”を願って狼煙を上げた…という。

 この日は、好天の暖気で海上は霞み、距離およそ22~23㎞という与論島奄美群島)や沖永良部島の島影は望めなかった。
 その与論島との間、北緯27度あたりの海上で、年に一度、本土との交流集会も行われていたこと…など、本土(ヤマト)のぼくらは知る由もなかった。

 太平洋からも東シナ海からも、寄せる荒波が断崖に吼える、岬の台地上には、「本土(ヤマト)に届け」とばかり。
 1972(昭和47)年の沖縄返還があった4年後、沖縄県祖国復帰協議会によって建立された「日本祖国復帰闘争碑」。
 沖に向かって、胸をはって建つ。

 「全国のそして全世界の友人へ贈る」と題し、刻まれた碑文の声すさまじい。

 吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
 権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ
 打ち寄せる 波濤の響きを聞け
 戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の叫びだ

 (中略)

 一九七二年五月一五日 沖縄の祖国復帰は実現した
 しかし県民の平和への願いは叶えられず
 日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された

  しかるが故に この碑は
  喜びを表明するためにあるのでもなく
  ましてや勝利を記念するためにあるのでもない

 闘いをふり返り 大衆が信じ合い 
 自らの力を確かめ合い決意を新たにし合うためにこそあり

  人類が永遠に生存し
  生きとし生けるものが 自然の摂理の下に 
  生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある

 ………………

 この”ふれぶみ”こそ、辺野古の意志でもある。

 本土は、ついに、沖縄に寄り添うことなく、いまに至った、過去を負う。

 遥々、来たかいがあった…。