どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《戦後70》沖縄巡礼⑬-辺野古の坐りこみはゲンキだ/キャンプシュワブ・ゲート前には緊張の道が一筋

-No.0600-
★2015年05月14日(木曜日)
★《3.11》フクシマから → 1526日
    (高倉健没から →  185日
★オリンピック東京まで → 1898日

*このブログ600回になりました*








◆基地反対の人々の行動を、おなじ沖縄人が監視できるか

 移動して、国道沿いのキャンプシュワブ・ゲート前。
 ちょうど昼の時間で、坐りこみテントの中も人影は少なく、ゲートの警備ぶりにも格別なことはなかったけれど、それでも緊張感が道を挟んで対峙している。

 声をかける適当な相手も見つからないままに、シャッターを押しつつ歩ていたら。
「どういう関係の方でしょうか」
 貫録のあるお歳の方から、声をかけられた。穏やかな物腰ながら、目に警戒の色がある。

 80年安保のとき、ドキュメンタリー映画撮影のスタッフとして新宿の街頭に出張っていたボクは、学生デモ投石の標的にされ、カメラマン(というよりもカメラのほう)を庇いながら逃げ惑ったときのことを、想いだした。
 その場の状況からすれば、やむをえなかったのだけれども、それでもボクには(仲間から殴りかかられた)ような衝撃だったのだ。

 不意に、そんな戸惑いも手伝って…。
 ぼくは瞬間、返事にツマった。
 以前は腕にあった「報道」の腕章が、いまはない。記者でもカメラマンでもない者が、取材の理由をどう説明したらいいのか。

 やっと、支援の意志で来たこと、いま浜のテント村にも寄って来たことを伝えて。
「そうでしたか」
 相手の方の表情に笑みが泛んで、ヨカッタけれど。
「テントの人たちの、顔にはカメラを向けないようにしてください、嫌がりますから、お願いします」
 クギをさされた。

 (非暴力の阻止行動は)闘争ではないけれど、最前線にはちがいなかった。

 じつは、キャンプシュワブ前での市民の基地建設反対運動を、24時間体制で監視させられている人がいる。
 国の出先機関として、国道の管理にあたる沖縄総合事務局の職員たち。彼らは上層部から、反対運動の人数やその発言内容まで、報告をもとめられたことさえあるという。

 そこで、「道路管理者としての度を越えた監視」の解除をもとめる集会が、那覇で開かれたのが、つい先月4月中旬のことだった。

 本土(ヤマト)の意向で、沖縄人(うちなんちゅう)が沖縄人を監視することなど、できはしない。

 同じことは、海上ボーリング調査阻止行動の人たちに制裁をくわえ、評判をおとした海保の関係者にもいえるのではないか。

 70年代、大学紛争のとき、ぼくの在学したカソリック系キャンパスでは、デモに参加する学生を神父が監視している、という噂がながれ、学生たちのあいだに(それはないだろう)ヒジョウな嫌悪感が蔓延したことがあった…。

 ゲート前で坐りこむ一人が、ぽつりと言った。
 「いつ、なにがあるか、わからん」
 あの連中だって落ち着かんだろ、と指さすさき、資材搬入口の前には、某警備会社の制服が手持ち無沙汰にかたまっていた。

 カンパの箱に寄付していたら、テントからお礼に出てきたおばちゃんが黒砂糖の袋をくださり、引っ込みがつかなくなってしまったボクは、札をもう一枚、奮発することになった。

 ……………

 沖縄巡礼に出かける直前の4月下旬。
 50年前(ベトナム戦争中の1966年)のアメリカ軍に、辺野古新基地建設計画があったことを示す極秘指定の公文書を入手、という記事が東京新聞に載った。
 その公文書の分析によれば、辺野古は「貧しい」と指摘されている。原発候補地の選び方と同じ伝で、連中はいつも相手の足もとの弱みを衝いてくる。
 
 公文書の報告者は、反対運動の盛り上がりに警戒感を示し、また、読谷村残波岬・本部半島・西表島・本島北部地域など、他の候補地との比較検討をしながら、最後には辺野古周辺が最適と結論していた。

 彼らの念頭から、本土(ヤマト)はすでに抜け落ちている。
 「沖縄しかない」考えは、いまの安倍政権と一緒だ。
 明らかに差別だ、沖縄を植民地かなんぞのつもりでいる。

 その後、情勢の変化でいったんは立ち消えになっていた新基地案が、50年の時を経てよみがえったことになるわけだ。

 しかし、アメリカの軍にも政府筋にも、沖縄のいまを識る人はいる。
 彼らはきっと、”オール・オキナワ”の民意がこれまでとはまったく違ってきていることを、痛感し、危懼している。

 高をくくって脳天気でいるのは日本政府くらい、かも知れない…。