どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《戦後70》沖縄巡礼④-旧海軍司令部壕/     「島守」島田叡知事と大田實司令官

-No.0589-
★2015年05月03日日曜日憲法記念日
★《3.11》フクシマから → 1515日
    (高倉健没から →  174日
★オリンピック東京まで → 1909日









◆肝胆相照らした…軍人と県知事

 「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
 海軍次官あての打電は1945(昭和20)年6月13日。

 海軍陸戦部隊を率い、海軍司令部司令官だった大田實少将の電文には、その前に「沖縄県民斯〔か〕く戦ヘリ」の言葉が添えられ、いかに沖縄県民が苦難に耐え、協力を惜しまなかったか、の訴えが述べられていた。
 さらに電文のはじめには、「沖縄県民の実情に関しては県知事より報告されるべきだが、すでに県には通信力がない」ことを伝え、「県知事から依頼を受けたわけではないけれども、看過できない現状に、代わって緊急にお知らせ申し上げる」と真情が語られていた。

 この電報打電を最後に、同夜、大田さんは壕内で最期を遂げている。

 その、当時(最後の官選)の沖縄県知事が、島田叡さん。
 就任は1945年1月、この頃には戦況はもはや悪化の一途、本土決戦を目前に、沖縄地上戦も避けられない情勢のもとでは、死を覚悟の赴任、だったことになる。

 現実に、4月のアメリカ軍本島上陸からはじりじりと撤退を余儀なくされ、南部へと追い詰められていくうちに県政執行は困難になり、ついに6月9日には、島田知事は県組織の解散を命じている。

 冒頭の電文打電の、わずか4日前。
 熾烈な戦況の推移が知れる。

  ……………

 その、沖縄。
 普天間飛行場オスプレイを望み見た嘉数高台から、ぼくは那覇市街の渋滞を縫って豊見城〔とみぐすく〕へ。

◆旧海軍司令部壕の丘に立った

 ここも、小高い丘の上。
 那覇空港に離着陸する機影の向こうは海、いまは那覇市街に隣接する繁華な街の、にぎわいのただ中にあった。

 資料館では、軍服姿の大田司令官に、背筋を正して迎えられた、が、展示されている軍装遺品類はあまりに貧しい、無慚であった。

 「こんなんで……なぁ」
 沖縄在住の友人に案内されて来たという、やはり戦後70年、節目の戦跡訪問者が溜息をもらす。

 壕内へは、105段30メートルの石段を下る。
 中はアリの巣を連想させる迷路、いたるところから枝道が暗い穴をのぞかせ、行く手を遮る。

 どんなに懸命に巣喰ったところでトンネルにすぎない、そんな地下陣地に4000人の兵士が居て、壮絶な最期を遂げたという。
 末期には、戦傷者が通路にまで溢れた…と。

 司令官室。
 大田司令官が辞世の句をのこしたその壁には、「醜米覆滅」の殴り書きが消えかかっていた。

 ぼくは、この大田司令官の(冒頭の)電文のことを、母から話し聞かされた。
 小学校高学年になった頃だったかと思う。
 また夏休みがきて、終戦の日が近づいていた。
 (ぼくは、その翌日の吾が誕生日が、厄介な重荷になってきていた)
 母もじつは、つい最近になってはじめて知った、といっていた。

 その母も、島田知事のことまでは、知らなかった。
 「島守」と慕われた知事があったことについては、その後に得た知識を、ぼくは母に語るきっかけがなかった。

 父も母も、旅の好きな人だったけれど、ついに沖縄には行くことなく(行きたいともいわずに)、この世を去った。 

  ……………

 「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」