どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

六本木の東京ミッドタウン・ガーデンへ/     21_21DESIGN SIGHTの「単位展」に遊ぶ

-No.0566-
★2015年04月10日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 1492日
    (高倉健没から →  151日
★オリンピック東京まで → 1932日

















◆”遊べる”空気がウレシイ

 六本木の東京ミッドタウン
 ここが防衛庁の跡地だったなんて、もうだぁれも思ってもみない、みたいだ。
 ここにはサントリー美術館があり、FUJIFILM SQUAREがあり、近くには国立新美術館も、六本木ヒルズには森美術館もあるけれど。

 そんななかに、ちょっと毛色のちがったセンスでガーデン内に異彩を放つものがある。
 「21_21DESIGN SIGHT」
 いわばデザイン広場といった趣きで、年2回の企画展を中心に、デザイン・シーンに携わったり、関心を抱いたりしている人たちのコミュニケーションをはかろう、楽しみながらやっていこう…というところだ。

 だから、たとえば今度の「単位展」にしても、博物館みたいなむずかしい表情のところとは、まるでチガウ。
 美術館みたいに、なにやら蘊蓄をかたむける風情の、めんどくさいような気分もない。

 ぼくのようにデザインに関心をもち、しかも人生まったくデザインとは縁遠いような男にも、じつに興味深く眺め、見やることができる、そう”遊べる”感覚がうれしいのだった。
 そんなところって、じつはまだまだ少ないですから…。

 「はかる」ことを識って、発想の転換も「はかろう」という「単位展」。

 ”木もの作り”をするぼくにとって、「はかる」のは常日頃のことだし、これはなにもボクにかぎらず誰にしてもだ、実際の寸法や量目ばかりじゃない、とかく人の世渡りには「はかる」ことがかかせない。

 「計り」「測り」「量る」から、「図り」「謀り」「諮る」ことまでが含まれるし、ざっと「見つもる」ことも、あれこれ「推しはかる」こともある。

 そうしてじつは、この「推しはかる」場面が、モノサシや計量カップで正確に「はかる」ことなんかより、ずっと多いし、実用的でもある。

 というわけで、ぼくは「はかる」ことが好きであり、にもかかわらず「はかり違える」ことも多いときているのは、どうしたことだろう。
 それは、さておいて…。

 カルチャーセンターで「木工」の指導をするぼくは、生徒さんたちに「はかる」ことと「適当に」することのたいせつさを教えている。
 それは、こまめに「はかる」ことをしないと寸法の感覚が身につかないからで、寸法が身につけば「適当に」するコツがつかめる、と同時に「はかる」たいせつさも身につくという寸法だからだ。

 いちど寸法をとったら、かならず、もういちど「はかり」直す、くせをつける。
 そのうえで、さいごは自身の手指の感覚にゆだねる、つまり「適当に」する。 
 その場合の〈適当〉は、もちろん「ごまかす」方のではなく、「ほどよく」する方の。

 合わせ目は、指の腹で確かめる。広げた手の、親指から小指の幅がおよそ15センチだから、2つ計れば30センチ…といったぐあいに。
 身体定規ってやつ、これを使えるようになると「適当に」デキます。

 〈適当〉といえば…。
 
 ボクは「量と重さ」のコーナーで、ふと、亡くなった親父さんのことを想い出した。

 日本橋、砂糖問屋の一族に生まれた父は、戦後没落の憂き目をあじわいながら、真面目にサラリーマンを働いた人だった。
 その人が、冗談に晩年「重さを量るんだったら自信があるね」といった、さんざ砂糖を量らされたからね、と。

 そんな、器用なところなんか、これっぽちも無い人がです。
 (信じられない)
 気がして「じゃ量って見せてよ」
 意地悪をしてぼくは、砂糖を量り入れた袋を父の手に持たせた。
 「うん……?……500(g)ってとこか」
 (へぇ、信じられない)けれど、あたっていたのだ。

 なにかにつけて、人の身につくことが少なくなったいまどき、身をもって「はかる」感覚も、「適当に」許容範囲の幅をもたせることも、苦手な人が多くなっている気がする。

 ……そんな雰囲気もあじわいながら、楽しんだ「単位展」でした。