どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《戦後70》長崎巡礼⑨-城山国民学校-/     爆風が校舎の天井を突き抜けていった…

-No.0549-
★2015年03月24日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 1475日
    (高倉健没から →  134日
★オリンピック東京まで → 1949日

*きのう23日、東京にも”桜前線”がやってきた。開花宣言気象庁職員が「開花の日に巡りあったのは初めて、注目度の高さに驚いた」と。ずいぶん待ちわびた気がするけれど、それでも平年よりは早いんですってね…ブルッ*





◆もっとも爆心地に近かった学校

 原爆落下中心地の浦上地区はいま、鉄道と道路を挟んで、東側が原爆モニュメント群と平和祈念のエリア、西側が明るい将来と健康を目指すスポーツ・エリアになっている。

 スポーツ・エリアのすぐ脇を流れる浦上川を渡ると、また小さな丘につきあたる。
 急な石段を、ぼくは息を切らせて上った。
 浦上小学校。爆心地からの距離は直線でおよそ500メートル。
 石段を上がりきったところが校門で、すぐ目の前が校舎の出入り口、その玄関前に少年平和像が建ち、花壇に囲まれていた。

 つまり、脇につつましく置かれてあるのがふつうのものが、ここでは正面に(たちふさがるように)据えられている。
 こんな成り立ちの学校、見たことがなかった。
 (腰が据わってる、半端じゃないな)

 もっとも、こちら男坂の上にあるのはいわば裏門で、ゆるい女坂を上った正門は反対側にあるのだった…が。
 ともあれ、校門のすぐ右手に、ひと目でそれとわかる古びたコンクリート3階建ての建物があった。
 被爆校舎(城山小学校平和祈念館)だった。

 被爆当時、国民学校だった頃の旧校舎、その一部が新校舎建設のときに、人々の熱心な保存活動の結果、遺構としてのこされたものだった。現存する貴重な被爆建物として国の文化財になり、現在は改装されて平和祈念館になっている。
 長崎を訪れる人たちも、ここまではなかなか足をのばさない、学校の修学旅行など団体見学が多いようだった。

 ここにも高齢のボランティアの方がおられて、これからも時間をかけて少しづつ整備されていくのだろう遺構の内部と、(原爆資料館なんかとはくらべものにならない)つましく並べられた展示品などを、かいつまんで案内してくださる。
 展示品が質素で地味なだけ、被爆した方々の悲惨もより身近に、胸をつかれるものがあった。

 東方の爆心地から、凄まじい勢いで吹き上げてきた爆風は校舎内を突き抜け、二階の天井を突き破っていき、炎熱がその後を襲った…。
 ちょうど夏休み中だった学校に生徒たちはいなかったが、先生と職員がいて校庭の草取りなどしていたという。その人たちと、ほとんどがきっと学区内にいたであろう生徒たちもふくめて、ほとんどが被爆して亡くなったわけだが、学籍簿を焼失したため数は不明だ(総数推計1500余名)、と。

 そこまで説明してくださって「あとはどうぞご自由に…」と、押しつけがましいところなく、ボランティアの方は下がってゆかれた。
 ぼくら、声もなく、たたずむ。

 長崎の”不戦”と”核兵器廃絶”を求める姿勢、平和の原点を揺るがす安倍現政権に対する不安と懸念の表明など、昨年、田上富久市長の断凛乎とした「長崎平和宣言」は、まことにりっぱなものだった。
 すまないが、広島とはその決意のほど、くらべものにならなかった、といっていい。

 おなじ意志が、ここ城山小学校平和祈念館にも、やどっているのだろう。
 校庭の桜は、薄紅をふくんだ蕾がふくらんできてはいたが、まだ開花には間がありそうだった。
 
 あの日から20日ほど、戦後の平和を願う桜の花、いまごろはきっと満開になっているにちがいない。
 




*写真=上段、(左)は城山小学校平和祈念館、(右)は被爆した塔屋内部の当時はモダンな造りだった円窓*
*写真=下段、(左)は校庭の平和の鐘、(中)は被爆して生きのこったカラスザンショウ、(右)裏玄関前に建つ少年平和像には生徒たちの礼拝する姿がいまも見られる*