どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《戦後70》長崎巡礼④-ゆるい坂を上った”浦上”に-/吸い寄せられた”新型爆弾”爆撃機

-No.0540-
★2015年03月15日日曜日
★《3.11》フクシマから → 1466日
    (高倉健没から →  125日
★オリンピック東京まで → 1958日








◆”原爆落下中心地”の衝撃

 翌朝は…雨。
 複雑な地形、地勢からくる天候の変わりやすさは函館に似ている。

 自然シブい表情になっているのを鏡に一瞥してホテルを出、市電に乗ってランタンフェスティバルの提灯が濡れてしおれる繁華街を後にした。

 長崎駅前を通って北へ、15分ほどで電車は松山町の電停に着く。
 (着いてしまった…)と、ぼくは感じていた。
 (こんなところ)だったろうか、てんでおぼつかないのは、どうしてだろう。

 ぼくは、大学入試を翌年にひかえた高校2年になったばかりの春、長崎を訪れ、あのときも、まず浦上に向かったことは覚えているのダ、けれどもイケナイ、そのほかの記憶がすっぽりと抜けていた。

 そこを「原爆落下中心地」と呼ぶ。
 先に訪れた広島にも「爆心地の碑」があったけれど、長崎の”落下”中心地とする直截さが、そのころのボクの感性に耐えがたかったことは思いだせたが、それだって、ぶつ切りの一片にすぎなかった。

 はじめて訪れる、かみさんを園の入口まで導いておいて、ぼくは黒御影石のオベリスクに向かってスタスタと独り歩み寄ってしまう。
 そこが”落下”中心地だった。

 風雨を避けた祠に、諸方から寄せられた千羽鶴が色鮮やかに吊り並べられている。

 ぼくも幼時、母や姉に習って千代紙で鶴を折った。翼や嘴の先にきれいな折り目をつけることが、美しい鶴を折る要点だった。
 仕上がって、胴の袋に息を吹き込むと、翼まで活き活きとなった。

 けれども、慰霊のしるしの千羽鶴に向きあうようになったときから、ぼくは鶴を折らなくなった。
 嫌になったのではく、ただ折りたくなかった。
 紐を通された千羽の鶴は、美しくても、もう空を翔けることはない…。

 鶴は、ぼくのなかで紙飛行機に姿をかえた。
 飛行機の設計に、鶴も大きな影響を与えたろうと思う。

 その飛行機が、重い”新型爆弾”を積んで飛来した。
 爆撃機は、長崎の入江から浦上川を遡った。
 きらきらと夏の陽を反映する、美しい川の流れに魅入られるように…。

 ”原爆落下中心地”の園地には、被爆当時の地層がそのままに遺され、傍らには、無数の亡き骸を浮かべた細い流れが、いまも、静かに雨にうたれている。

 ぼくは、小川が浦上川に流れ入り、下って流れ向かう入江の方角を、つくねんと見る。
 それもまた、ずっと以前にとったのと同じ行動だったことを知る。
 けれども、やはり、前後の脈絡には欠けた、断片にすぎない。

 旅の荷物を背負ったまま、流離ってくる風情の(春休みだろうか)若者たちが目につき、彼らの姿が佇んだり、流離い去っていくのを眺めて、ぼくは(おなじだ)と想う。
 (だって…ほかに、どうしたらいいって、いうんですか)

 若い日のぼくも、駅に荷物を預けることもなく、ナガサキを流離い、街中の屋台で黙然と酒を飲み、ついに宿ることもできずに、夜の列車で去っていった。

 子を抱いて立つ母の像の、台座に〈1945 8.9 11.02′〉と記し遺されているのに向けて、ぼくは闇雲に連写のシャッターを切りつづけた…。