どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

「フリー」な「ジャーナリスト」ってなんだろう/ メディアに独自の取材陣もたれたら喰えなくなる

-No.0518-
★2015年02月21日(土曜日)
★《3.11》フクシマから → 1444日
    (高倉健没から →  103日
★オリンピック東京まで → 1980日




◆フリー・ジャーナリズムに思う

 後藤健二さんの事件があってから、フリー・ジャーナリズムの周辺が、表だっては見えないところでアレコレ言われつづけているようです。

 〈自己責任〉とはなにか、どういうことか。
 〈国〉とはなにか、個人にとって〈国民〉とはなにか。
 
 考えなければならないことは、いっぱいあるし、みんなで懸命に考えていったら、きっと、いい方向に行けるはずだとも思うのですが、なかなか…。

 どうしても、感情が理性を、おしのけてしまいがち。
 「フリー」で喰えるんだから、いいよね…という空気がたしかにあります、ずっと以前から。

 たとえば、ジャーナリストってなぁに、どういう人なの。
 フリー・ジャーナリストばっかりが、なぜ、取材のために命の危険まで冒すのか。
 メディアそれぞれが、独自に、社員記者を取材に派遣すべきじゃないのか…という声もある。
 しかし、社員に危険を冒させるリスクは、なるべくなら「避けたい」。ですから…

 メディア側からの率直な反応として、「フリージャーナリズムがあるから助かっている」という感想がある。
 いっぽうで、「メディアすべてに独自取材陣をもたれたら、われわれフリー・ジャーナリストは食っていけなくなる」という、フリーランス側からの正直な本音もあった。

 そうなんだよね。
 ぼくもフリーランスの経験があるから、ワカルんです。
 フリーランスでなければできない仕事、というのが厳としてある。
 さまざまな、というよりほとんどすべての分野でフリーランスが求められ、しかも命の危険なところ、かならずしも紛争地や戦地ばかりでもない。
 「いい」か「わるい」かの理屈の問題ではなくて、それで持ちつ持たれつ、成り立っている世界があるのも事実デス。

 一般に、それがわかっていながら理解しきれない壁があるのも、また事実ですね。
 その根底にあるのが「フリー」という立場に対する、羨ましさ。
 「フリー」って響きもいいんですから。
 「好きなことができて喰えればいうことないじゃん」

 それで、この国でも「フリー(自由)」でいるのは楽じゃありません、一部とびぬけた方をのぞけば。
 「フリー」の代償は、日常的にかなり高くついているんですが。
 それでも、日々の糧をうるため、あくせく働いていらっしゃる方々からは、羨ましくしか見られない。
 ほんとなら、おなじ庶民感情でわかりあえるはずの垣根が、上流階級の邸の塀みたいに高く感じられててしまう現実には、厳しいものがあります。

 「イスラム」の語源て、じつは「自由」をあらわすアラビア語の「アッサラーム」なんですってね。

 まぁ、そんなことあらためて言われなくても、「イスラムの教えがテロに導く」なんてこと、本気で信じてる人なんてありゃしませんけど、なんとなく不信な感情が頭をもたげてきてしまう。
 イスラム国…NHKでは「IS」と表現することにしたようですが…のいまがあるのは、アメリカが無理やり仕掛けたイラク戦争に原因があることまで、深く重く、思いをいたす人は、やっぱり少ないんですよね…。