どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

J・スディーンとM・モンローにみる映画青春論/“気づき・ヒューマン”ともいうべき時代があった

-No.0507-
★2015年02月10日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 1433日
    (高倉健没から →   92日
★オリンピック東京まで → 1991日




◆3番M・クリフト、4番J・ディーン

 きのう、お話した『地上より永遠に』のモンゴメリー・クリフト、“枠におさまりきれなかった”男のこと。
 出世作になることが約束されているような映画への出演を、彼は何本も断ってしまった、受けられなかった。
 あのラッパはよかったんだけど、“惜別の音”になってしまった…。

 M・クリフトが出演を断った『波止場』(1955年、エリア・カザン監督)では、元ボクサーで波止場の硬骨の荷役労働者役を演じたマーロン・ブランドが、アカデミー主演男優賞に。そればかりか、この映画はなんと作品賞・監督賞など8部門の栄誉に輝いている。
 (M・クリフトは、よっぽどボクサーが嫌だったのかな…)

 『地上より永遠に』とおなじフレッド・ジンネマン監督の『真昼の決闘』(1952年)では、グレース・ケリーと共演したゲーリー・クーパーが、やはりアカデミー主演男優賞。この作品は後に、荒くれ西部劇をヒューマン・ドラマに昇華させた映画として、高く評価されることになったが。
 (M・クリフトは、西部劇が好きではなかったんだろうか、まぁ、彼は西部の荒野なんかより都会の空気の方が似合うと、ボクも思いますけど…)

 そうして、『エデンの東』(1955年、エリア・カザン監督、原作はジョン・スタインベックの同名小説)。
 この作品の主演は、ジェームス・ディーン。映画初出演の彼が、このチャンスをものにして一気にスターダムにのし上がったのには、たしかに“時代の空気”というものもあった。
 
 第一次世界大戦(『エデンの東』作品の背景)、第二次世界大戦の激動期を経て、人々の胸にじわっと蘇ってきたのが〈人恋し〉、〈愛しい人〉の情だった。
 “気づき・ヒューマン”というような空気が流れていた、偏西風みたいな大きな流れであった(ざんねんながら長くはつづかなかったけれど…)。

 そのおなじ風の中に瞬いた綺羅星の青年ふたり、M・クリフトとJ・ディーン。
 しかし、やや神経の尖り気味なM・クリフトにくらべ、J・ディーンの拗ねたようなガキっぽい可愛さのほうが、この時代の空気にはなじみやすかった…のだと思う。
 野球でいえば、まだまだ伸び盛りの新興チームの、M・クリフトが強打の3番、甘いマスクに似あわず試合を決めてしまう、いかにもアメリカンな4番がJ・ディーンといったところか。

 ぼくの青春を寄託する役者が、M・クリフトからJ・ディーンへと移っていったのも自然のなりゆきだった。
 しかも、この二人、どちらも毀れやすかった。

 ジェームス・ディーンは、『エデンの東』と同じ年(1955年)の『理由なき反抗』(ニコラス・レイ監督)で、その存在感を伝説と永遠のものにし、つづく次作『ジャイアンツ』(ジョージ・スティーブンス監督)では準主演の役どころながら、主役のロック・ハドソンエリザベス・テイラーを完全に喰ってしまう、カウボーイから石油王に成り上がっていく役柄そのままに、スクリーンに風雲を巻き起こして、そのまま去って行った…。

 『ジャイアンツ』の公開は1956年だったが、J・ディーン自身は撮影終了後まもなく、愛車ポルシェの衝突事故で死亡、24歳だった。
 彼の映画もまた(M・クリフトの場合とおなじく)、見られたのはこの3作きり。
 しかし…ぼくの心底にデッカイ風穴あけていきやがった。

 おなじ時代に、マリリン・モンローがいた。
 ぼくの好みのタイプではなかったけれど、存在感では“気づき・ヒューマン”の風潮をはるかに超えた、“豊満の殿堂”をハイヒールでモンロー・ウォークしていた。
 
 「ジェームス・ディーンとマリリン・モンローにみる映画青春論」が、ぼくの卒論(新聞学科)テーマだった。
 ぼくはいまも「ジミー」デザインの皮ジャン(マクレガーの赤ではないが)を持っており、気分がいいときには羽織って、ちょいと斜にかまえてみたりする…。