どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

「奴阿呆(どあほう)!」と吾を叱りつけた日/  補聴器をなくし、気づきもしなかったダメなやつ奴

-No.0459-
★2014年12月24日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 1385日
    (高倉健没から →   44日)
★オリンピック東京まで → 2039日




◆奴阿呆…音声表現的には「だぁほっ」に近い

 19日の金曜日、ことし〆のカルチャーセンター「木工教室」、講師の仕事にでかけ、帰宅してから“補聴器”が見あたらない。
 どこに置いたか、覚えがない…けれども、家のなかのどこかにチガイない。

 この日の「木工教室」には、体験希望者が2名あり、せっかくもってくれた興味を深めてもらおうと、おおいに気ばった。
 それでなくても、ぼくの指導法は(生徒さんたちの評判によれば)熱のこもったものだったから、3時間の教室をおえるとグッタリだった。

 ……でも、まさか、わが耳につけた補聴器を紛失、そのことに気づきもしなかった…なんて、考えられない。
 (どこか、ひょんなところから、きっと見つかる)と思って、そういうことがこれまでにもあったから、翌日1日をすごした、が、出て来ない。

 もちろん、“補”聴器だから、必要なときに着ければいいのである。
 しかし、音の情報はどこにもあるし、人と逢って話し始める前に「ちょっと待って」と断って装着するのも気が引けるし、いったん着けてしまうと外すのを忘れることもある、というわけで、つい着けっぱなしになることも多い。

 耳に補聴器があることを忘れたりするというのは、それがまだ、身についてはいないからである。
 そう思って自戒を繰り返すのだが…。
 頭から被って着脱する衣類に、補聴器が引っ掛ってとれてしまうことも、よくある。

 邪魔になる入浴時、補聴器を外し忘れたままシャワーを浴びてしまい、補聴器は小型のボタン電池で作動する精密機器、あわてて水気を拭きとったこともある。
 必要のない寝るときでさえ、ベッドに入ってから気がついて外すことがある、くらいなのだ。

 さっきは「失くすのは身についていないからだ」といったけれど、逆にいえば「気づかないほどピッタリと身についてしまっている」のでもあった。

 必要なときに着け、着けると外すのを忘れ、要らなかったと…気がついたときに外す、そのとき身近に収納ケースがなければ、とりあえずの置き場所に置き忘れる。
 それが、少なくともボクにとっての補聴器というものだ。

 そういうわけで、いつ、どこで、着脱することになるかも知れない性質の補聴器は、行方不明と発見保護の、あぶなっかしい“綱渡り”の連続である。

 そこに思いいたって、2日後に徹底的に捜索してみたけれど、ない、どこからもついに出て来ない。カルチャーセンターの教室にも、交通機関にも問い合わせてみたが、ついに行方知れず。
「失くした」
 事実にボクは愕然、奈落の底へとオチコム。

 売れ筋の限定された補聴気は、けっして安くはない品で、それをボクは、これで2つも失くしたことになる。
 それよりなにより、耳から外れて落とした、そのとき気がつきもしなかったことが、ショックであった。
 もとより、人後に落ちないオッチョコチョイ、粗忽者だとは承知しているが。
 (歳をとったか…)という憮然たる気分が、おおきく土星の輪をかける。

 やむをえない、また補聴器を買い替える…か。
 そこで、ぼくは「待てよ」と胸の内に叫ぶ。

 身につかない補聴器なら、やめにする、手もあるのではないか。
 他人には聞こえている音声が、自分には聞こえないリスクはある…が。
 聞こえないものは聞こえない、聞こえないものは聞かないでもよし…と、いっそ居直ってもよいのではあるまいか…。

 ボクはいま揺ら揺ら悩みの波に揺られている。
 (まだ70前じゃねぇか頼むぜオイ)