どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

記念物ばかり遺して、人類が絶えて…どうするの/ 国立競技場の解体にともなう壁画のゆくえ

-No.0457-
★2014年12月22日(月曜日)
★《3.11》フクシマから → 1383日
    (高倉健没から →   42日)
★オリンピック東京まで → 2041日

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◆なんとしても「のこせ」というけれど…

 解体の手筈が遅れる不手際で、なんとも見っとも無い日本スポーツ振興センター(JSC)に、もうひとつ、別の課題がもちあがっているという。
 国立競技場の壁面を飾っていたモザイク壁画、13点をどうするか。

 目にするチャンスも多かったメーンスタンド左右の「勝利の女神像」と「野見宿禰像」に加えて、バックスタンドに10点、正面玄関脇にも1点。
 壁画だから大作ばかりで、なかには高さ・幅ともに8メートルにおよぶ作品もある。
 (これらはみな、ただいま壁面から切り出し中とのこと)

 このうち前記「勝利の女神像」と「野見宿禰像」は、新国立競技場に併設予定の博物館に保存されることになっているが、ほかの11点については先行き未定。
 「それはないだろう、すべてまとめて保存展示すべきだ」と、制作者の遺族など関係者から声があがっているそうな。

 「のこしたい」「のこしてほしい」気もちはわかるし、「戦後日本美術のモダニズム絵画を象徴する作品」とその価値を指摘されれば、なるほどそうかも知れない。
 けれども…と、あえてボクはいいたい。

 記念物を熱心にのこすことばかりで、それを愛し理解する肝心の人類が進む道をあやまり、地球環境を破壊して、みずから墓穴を掘って滅んでしまっては、どうにもなるまい。
 それこそ、本末転倒の極み。
 記念物を「のこせ」というのであれば、その前にまず、人類が「生きのこる」ことに熱心であるべきではないのか。

 死んで墓をのこすことを考えた人類は、しかし、このままで行けばやがて墓だらけになってしまうことに気がついて、新しい葬儀のかたちを模索しはじめたところ…ではないか。
 それは文化財にしても同じこと、なのダ…じつは。

 ぼくがそこで想うのは、「のこるものがのこればいい」ということ。
 自然主義だ。
 関係者がどんなに努力しても、のこらないものはのこらないし、のこせないことが悪いことでもなく、のこらないから価値がないのでもない。
 逆にいえば、くだらないものでものこればのこる、それをあれやこれや批判・非難してもはじまらない、どうしたって、かぎりある人のなりわいは、いずれ時のなすがままではないか。

 世界遺産だろうと、国宝だろうと、末はみなひとしく、“本来空”あるいは“本来無一物”なのだから。

 ボクが思うに、日本人は「記念物をのこす」ことが、とりわけ好きな人種ではないだろうか。
 ほかの国々と比較しての、根拠があるわけではないけれども、そう思う。
 そのために、国も地方自治体も民間も、ひっくるめて費用の捻出に腐心する。
 その結果、各地に似たような施設が頻出、それらは時移れば、やがて自然淘汰されていく。

 国立競技場の壁画は、国立競技場にあってこそ価値あるもの。
 それゆえ、のこす努力をして、それでものこせない場合は、やむをえない、とぼくは考える。
 新国立競技場ができたら、その範囲内に、納めるべきものであり、他に場所をもとめてまで、のこすことは本意に反する。

 それより、なにより根本に、「競技場の解体そのものに問題がある」と、改修存続を訴える意見もあるそうで、それならそれでいい、のだけれども…。
 ぜんたいに、どこか歪んでやしないだろうか。