どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

“雄勝硯”の雄勝湾から“おめつき”神事の名振湾へ/《3.11》2014夏の巡礼・5日目・8月3日

-No.0330-
★2014年08月17日日曜日
★《3.11》フクシマから → 1256日
★オリンピック東京まで → 2168日






◆巡礼中の休日2日目、雄勝半島へ

 石巻市雄勝、かつての雄勝町は、牡鹿半島の北、太平洋に張り出す半島一帯。
 南に雄勝、北に名振の湾入があり、北の外れに北上川の大きな流下がある。

 《3.11》津波被災の耳目を、まず集めたのが、多くの学童と教職員の命を奪われた大川小学校。
 北上川の下流、新北上大橋の袂に近い、釜谷という土地にあった。
 「釜谷」は、丸く窪みこんだ低地のこと。風避け・波除けに有利な反面、津波のような災害に遭えば危難を被りやすい。
 このことの認識の、決定的に欠如していたことが、悲劇をうみ、永く怨みをのこすことにもなった。
 
 ぼくも、2011年被災の夏に大川小学校跡を訪れてから、巡礼のたびに立ち寄りつづけている。
 ここは、まちがいなく震災遺構としてのこるであろう、イヤ、遺さざるをえないことになってしまっている。
 これも悲劇的なこと、といわなければならない。

 もうひとつ、この大川小学校跡の陰に隠されたカタチで、その奥、沿岸低地部への関心も殺がれることになった。
 ぼくが、ようやくに長面〔ながつら〕地区に入れたのは、1年半後の13年春だった。

 長面浦を抱き込んだその低平な一帯は、海浜と河口からと、津波の挟撃に遭うことになって壊滅的な打撃をこうむり、ついに、基本的に住家はすべて別なところへ集団移転することになった。
 後で、北上川の対岸から眺めると、長面の低地はずっと奥まで見とおせるほど、ほとんど遮るものがなかった。

 この地に在った人々はきっと、こんどのことがあるまで、その危うさに深く思いをめぐらすことはなかったろうと思われる。
 ともあれ、道はこの先で途切れていた。

 このたびは、“雄勝硯”で知られた南側の雄勝湾から、半島の峠を越えて、北側の名振湾まで行ってみた。
 道は思ったほど荒れてはおらず、らくに通ることができた。
 名振の浜は、港近くの漁家が流され、山腹の高台にできた仮設住宅に避難していたが、漁は復活しはじめていた。

 美しく湾入する名振湾の海面は、養殖によさそうな環境にある。
 「あれが…」と、漁師は指をさす。
 カツオ漁の餌にする、小イワシの生簀網だった。
 この海で獲れる小イワシは、北上川から流入する真水まじりで元気がよく丈夫、だから遠く静岡あたりのカツオ漁船までが、わざわざ買いにくるのだという。
 「この夏がすぎれば、もう秋鮭のシーズンになるしな」と胸を張った。

 彼の家も流されていた。
 「あそこの…」と振り返るあたり、とりあえず引っ込んだ(でもまだ心配はのこりそうな)ところに、防災集団移転宅地の造成が、ささやかな規模で行われていた。

 復旧工事中の港の傍に、名振の伝統神事「おめつき」の由来を伝える看板を見た。
 むかし集落にあった大火をきかっけに、“火伏せ”の秋葉の神を勧請したのが起源とされる奇祭といってよく、「おめつき」は〈思いつき〉という、俄〔にわか〕狂言のこと。
 小道具に男根・女陰の登場する、見物衆との即興の掛け合いが見ものの、小沢昭一さんが存命なら大喜びされそうな演しものらしい。
 …が、文字面からはイマイチよくはわからず。
 帰ってネットで調べてナットク、ぜひとも観たくなった。
 (文字ではお伝えできかねる…参考までに動画をご紹介しておこう)
Japanese phallic tsunami recovery festival - YouTube 

 帰途、森林公園の仮設住宅に寄ってみた。
 夏の午後のひととき、緑陰のテーブルをかこむ人たちの顔には、前に逢ったときとかわらない笑顔があったけれども、肝腎な課題の、移転先や新居の見込みはまだ、たっていないようだった。



*写真=上段、(上)は雄勝半島北側の名振湾・左手へ峠ひとつ越えれば長面集落を経て大川小学校へと至るが道は不通のまま、(下左)は漁網の修理に精出す一家・この家族の家も津波にもっていかれた、(下右)は名振浜に近い造成中の防災集団移転宅地*
*写真、(下段)は雄勝味噌作にある緑化復興プロジェクトの「雄勝ローズファクトリーガーデン」*