どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

多賀城よく津波に耐え、末の松山浪こさじとは…/《3.11》2014夏の巡礼・1日目・7月30日①

-No.0323-
★2014年08月10日日曜日
★《3.11》フクシマから → 1249日
★オリンピック東京まで → 2175日

*台風接近のおかげ、猛暑一段落に救われましたなぁ…関東地方は*





◆“巡礼行”のスローダウン

 2011年4月11日、あの《3.11》からちょうど1か月後に被災地入りしてから、これまで。
 ぼくたち(夫婦)の、やむにやまれぬ“巡礼行”は年に2~3度づつ、そのたびに10日から2週間に及ぶことが多かった。

 みちのく(陸奥)の沿岸は、遠く、長くて。
 訪ねたいところは、あまりに多くて。

 この春11度目の巡礼行を終えたときに、遅ればせながら気がついた。
 疲労が、だんだん抜けにくくなってきていたことに…。

 スローダウンしよう。
 1度でこなしきれない分は、巡礼の回数をふやせばいい。

 この夏、このたび12度目の巡礼が、その始まり、というわけダ。
 ……が、沁みついたクセというものは、なかなか抜けない。
 ボクは、やっぱり「欲ばり」であった。

◆歴史の教科書の「多賀城」へ

 このたびの目的地は、石巻にしぼられていたのに。直行しきれず。
 その前に、チョコッと寄り道をした。

 仙台市、北東の「宮城野」へ。
 かつての陸奥〔むつ〕国の国府、多賀城多賀城市)へ。
 往時、そこは蝦夷と対峙する“宮城”の地(県名の由来)であった。

 その城跡には、津波の記録も遺されている。
 貞観11(869)年の貞観大地震マグニチュード8.4あるいはそれ以上で東日本大震災とほぼ同程度の規模と想定される)。
 当時の歴史書『日本三代実録』によれば、その被害のありさまも《3.11》を髣髴とさせる。
 ただ、城下にまで迫った津波も、高台の城まではとどかなかった。

 多賀城跡は、海岸からおよそ4~5キロ。
 (JR東北本線国府多賀城」駅のすぐ北西)
 砂押川を遡った津波は、低平地を呑み込んだが。
 標高10数メートル~40数メートルの、丘陵上の城は難をのがれた。
 城跡に立つと、山城と呼ぶにはささやかすぎるほどながら、貴重な高みには違いなかった。

 こんどの《3.11》の大津波も、ほぼ同程度の遡上であったらしいが、幸い付近に人的被害はなかった。
 ただ、貞観地震当時の海岸線は、現在よりも2~3キロ内側。その後、海岸線が海へと張り出していったのは、いうまでもなく埋立地の造成であり、この人工の作為はこのたび、液状化現象や地盤沈下などによってその脆弱さを露呈している。

百人一首の「末の松山」へ

 ぼくは、歌枕の「末の松山」にも行ってみた。
 城跡からほど遠からぬところにある、名所というか旧蹟というか。
 多賀城が歴史の世界なら、こちらは和歌の世界。

   ちぎりきな かたみに袖をしぼりつゝ
           末の松山 浪こさじとは

 わが家では、小学生時分の正月に「百人一首」を遊んだ。
 どの一首にしても、父か母が詠みあげる声を頼っての理解だから怪しいかぎりで、たとえばこの歌なども、ボクの頭では「こさじ」はなぜか「小匙」であった。
 まるで、ちんぷんかんぷん、でも字札はとることができた。
 
 この歌の意味するところは、「海の浪もけっして越えることのない末の松山のように」と、相思相愛かわらぬ男女の契りをいっている。詠嘆する「海の浪」は、「津波」であろう。
 その「末の松山」は城跡より海側、南東のやはり砂押川に近い、宝国寺の裏山。こちらはJR仙石線多賀城」駅の対岸である。
 天に向かった枝を伸ばす黒松は樹齢480とか。

 海岸からは約3キロで、城跡より1キロほど下流、標高は10メートルくらいのものだが、ここもたしかに《3.11》の津波にも洗われることがなかった…。

 こう記すと、なにやら物語りめくけれども、厳然の事実である。
 このようにさまざまな場面で、人は智慧と進歩とやらに溺れ、ちょいとばかりいい気になりすぎた。
 “奇跡の星”に生かされている謙虚さを忘れ、“母なる自然”を侮ったのは、つくづく愚かなことだった。

*写真、(左)は多賀城跡のある丘陵、(右)は現在は住宅街の一郭になっている「末の松山」*