どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

“帰還困難区域”浪江町の山野に見えない姿を追う/ 放射線像カメラマンのサンプリング同行記①

-No.0296-
★2014年07月14日(月曜日)
★《3.11》フクシマから → 1222日
★オリンピック東京まで → 2202日






〈参考記事〉
*-NO.0220-4月29日「放射線像」に脈うつもの/「いのち」の成長と循環にまつわる真実の怖さhttp://blog.hatena.ne.jp/sashimi-fish1/draft-scat.hatenablog.com/edit?entry=12921228815722721814

◆はじめて「通行証」で検問をパスした

 彼とは、“サンプリング”に向かう東北新幹線の車中で落ち合った。
 彼と逢うのは、これが2度目。
 最初に顔を合わせたのは、彼の展覧会。その後は、メールのやりとりで親交をふかめ、意志をたしかめあって、「行きますか」「連れてってよ」となった。
 ボクも、交友がずいぶん現代風になってきたものだ。

 彼の展覧会というのは、「放射線像展」。
 放射線像はオートラジオグラフともいって、(ボクなりの解釈でいけば)特殊な装置を駆使した放射性物質による汚染の映像化、目には見えない汚染の実相を浮び上らせる手法である。
 実際の映像化にあたっては、専門の研究者の協力を仰ぐが。
 そう、彼はカメラマン。いまは「放射線像」がテーマの人。

 郡山でレンタカーを借り、必要な資材などを購入、二本松市に移転中の浪江町役場で「通行許可証」の交付を受けた。取材の申し込み手続きなどはすべて、彼がすませてくれていて、書類にあるボクは同行者。
 この「通行証」、いわば“関所手形”がないばっかりに、先に報告した「《3.11》2014春の巡礼」でも何度、途中で無念の退却を余儀なくされてきたことか…。

 春の巡礼を終えたのが4月17日、28日に展覧会で彼と出逢い、そうして5月17・18日には新たな「放射線像」素材サンプリングに同行していた。
 (人の出逢いの機微というのは、おもしろオカシイ)

 仮役場の1階ロビーには、帰れない“故郷”浪江町のいま現在、町中の数ヶ所の実況映像がモニターに映され、仮設住宅に暮らす人たちがなにごとか話しあっていた。

 ひたすら東を目指して、山中へ。 
 浪江町の“帰還困難区域”まで、およそ1時間。検問所に近づいたところで、一旦停止し、装備を身に着ける。長靴に長ズボン、長袖の上着、高性能の防塵マスクに、帽子。彼の方は着衣上下とも使い捨ての被曝専用作業着、原発立ち入り取材の報道陣でおなじみの姿である。
 軽くて、蒸れない。彼は暑がりであった。
 ほんとうは目も保護した方がいいのだろうが、原発周辺ほどの高濃度汚染地帯ではないし、天候も穏やか、目視がたいせつなボクらは眼鏡なしだった。

 検問所では、「通行証」に記載の本人たちであることを運転免許証で確認、車のナンバーもしっかりチェック。しかし、そのほか取材目的とか、どのあたりまで行くつもりかとか、細かいことまでは訊かれず、案外あっさりとしていた。そして、あくまでも鄭重…。
 二日間に何度か検問を通ったなかで一度だけ、「レポーター…ですか」と訊ねられたことがあった。その種の人も来るわけで、けれども、急遽、検問に雇われた人には、それがどういう類いの人種なのか、いまひとつよく分からない様子だった。

◆五感の外にある脅威

 浪江町の山間部に入った。
 高太石山(863.7m)の中腹、国道399号。
 運転は、現地に習熟している彼。初日の、ボクは助手。
 
 托された小型の携帯“線量計”が手の平で鳴り始める。
 “線量計”は、放射性元素の放射性崩壊(1秒間におきる変化)の回数をカウントする。
 それを、〈放射線が人間にあたったときにどの程度の健康影響があるか〉の評価数値に置き換えたのがシーベルト(㏜)という単位。
 ちなみに、政府が一般公衆に対してに定めた「年間被曝許容量」20ミリシーベルト(m㏜)という限度数値は、1時間あたり3マイクロシーベルト(μ㏜/h)で超える。

 「帰還困難区域」を走り始め、計測を開始するとすぐに、カウンター標示が4.30(μ㏜/h)に跳ね上がり、2桁に達することも珍しくなかった。
 予測していた事態のはずなのに、ぼくは唖然……。
 いきなり騙しうちの殴打を喰らった気分だった。

 場所によっては、1とか2程度のこともあるのだけれども、安定した数値がつづくことは稀で、戦〔おのの〕き怯えるかのごとく、上下を繰り返して振幅が大きかった。
 しかも、〈車内〉にいてこの数値。
 感覚が麻痺するというが、脳神経にホルマリン浸みこませた脱脂綿を詰められた感じ。
 窓外に広がるのは、あくまでも長閑な農山村風景のなかで、なのである。

 カウンターの音に、心臓の鼓動が呼応する。
 はじめは耳元に近く持っていた線量計を、膝に下ろすと音が消えた。
 ぼくの難聴気味の耳は、線量計の音も苦手なようだった。
 「(数値が)上がってませんか」と声をかけてくる、運転席の彼の耳は正常。
 線量計を耳元に戻すと、「ピピッ」の間隔が切迫して、数値がナンと!? 3桁を超えた…。
 130.xxマイクロシーベルト(μ㏜/h)。

 彼が車を停めたところは三叉路。
 線量計を手に、車を降り、空〔くう〕をつかむように、周辺を計測してまわる。
 (なにかのマチガイか)、(線量計に狂いが生じたか)と思ったようだ。
 …が、そこでも微妙にバラつきを示した数値が、大きな松の樹陰でふたたび3桁を示した。

 そこは、西から東へと、やや傾斜角のある谷がつづいて、風に運ばれた放射性物質が吹き溜りやすそうな地形。これが「ホットスポット」というやつだろうか。
 東南の方向には沿岸部に連なる山並みが望まれ、その向こう辺りに福島第一原発はあるはず。
 風はその方向から、春めいて緩く吹いていた。
 
 彼は、ここで最初のサンプリングを試みた。
 松の根方あたりの、高線量が見込まれる腐葉土を、表層の一部のあるがままを崩さないように、スコップを使って慎重に採取した。
 カメラマンも「放射線像」がテーマであるかぎり、ここでの撮影は“証拠写真”であった。
 科学的な精度を確保するための記録はおろそかにできない。
 現場に線量計を置いてシャッターを切る。
 周辺の環境もしっかりカメラにおさめる。
 
 ぼくはその間、辺りをうろつきながら、脳裡に去来する想念を追っていた。
 放射性物質のタチの悪さは、目に見えず、臭いなく、味もしない…すべての“感じる”ことを拒否した存在にある。
 それでいて、その禍々しさの傲慢なところは、見えない糸で無辜の庶民を、問答無用に隔離病床に縛り付けることであった。
 ぼくは、身体疲労とは別趣の、心身に気怠さを覚えはじめていた。
 草叢の方へツバを吐き(さいわい嘔吐はなかった)、ボトルの水を呑んだ。