どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

「フツーの人」という「フツーじゃない」表現/  ボクは…フツウのフツウじゃない人

-No.0287-
★2014年07月05日(土曜日)
★《3.11》フクシマから → 1213日
★オリンピック東京まで → 2211日

 「フツーの人ですよ」と、テレビカメラに向かって証言する人がいる。
 事件があって、容疑者として捕まった人物に対して使われることが多い。
 (フツウの人なんていないのに…)とても気になる。

 きっと、「どこにでも見うけられるような人」、というほどの意味ではあろう。
 そんなふうに他人を見る人は、自分も「フツー」と思っているのだろうか。
 とんでもない、あなたはフツウじゃないですよ、てんでオカシナな人です。
 だって、フツウじゃない人をフツウだなんて、フツウの人なら言えませんからね。

 ボクは、もちろん「自分はフツウではない」と思っているのだ、けれども。
 他人からは、「ちょっと変わったフツーの人」と見えるらしい。
 ついでに、「でも、ちょっといい人よ」なんて付け加えられたりしようものなら、それこそ悶絶モノである。

 「フツーで、いい人」というのは、ほとんど「どうでもいい人」にちがいない。
 
 フツウではない罪を犯す者が「フツーの人」ってのは、とってもコワイ。
 よっぽどのことだった犯罪を「フツーの人がしたこと」にされちゃ、犯人だって浮かばれまい。
 それが「フツーよね」なんて世の中なら、奈落の恐怖だ。

 ボクは、フツウではない自分を密かに抱きしめ、他人には「フツー」に見えるように生きた方が、やっぱりいいのだろうか。