どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

町域は狭小でもガンバる…女川/     《3.11》2014春の巡礼12日目(つづき)

-No.0251-
★2014年05月30日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 1177日
★オリンピック東京まで → 2247日












◆女川町が生きのこる道…

 
 被災地女川へは2012年春、石巻市域の牡鹿半島側から入ったのが最初。
 《3.11》から1年が経っても半島の真ん中を貫くコバルトラインは通行不能のままで、かろうじて通じた県道で半島の背骨を越えて行った。
 牡鹿半島は、石巻湾に面した南西岸が表、女川町のある北東岸は裏側ということになる。

 北東岸、鮫浦湾に面した谷川浜は、まだ石巻市
 白っぽく乾いて人気の絶えた地面は砂漠のようであった。
 集落ことごとくすっかりやられた谷川浜では、高みの八幡宮だけがとりのこされてあった。

 いったん海辺を離れて山道にかかると女川町に入り、まもなく東北電力女川原発の煙突が見えてくる。
 アノ大地震のとき、女川原発震度計は6弱を示していたという。
 アノときの大津波は高さ約15メートルに達し、女川原発は危ういところで難をのがれた…と当初は伝えられたが、それも実際には“危機一髪”のきわどい状況にあったことが後に判明している。

 県道脇の原子力PRセンターは、いうまでもなく休館中。
 原発の立地する海岸へと下る道は途中で閉鎖され、路傍に「原発反対」の看板が古びていた。
 アノ大津波でもし、女川原発に“フクシマ”と同様の事故が起きていたら…。
 女川町と石巻市全域はもちろん、東松島市南三陸町の半分くらいまでが30キロ圏内であった。

 正直にいえば、女川町を訪れる気もちにひっかかりがあったのは、一にも二にも原発のせい。どうしたって気は進まない。
 “平成の大合併”で、周辺の町を統合して大きな石巻市が誕生したしたとき、女川だけがこれに同調せず独立できたのも、町財政を潤す〈原発マネー〉があったからである。
 ……とはいえ……。

 いよいよ女川町の中心部、女川湾岸にとびだすと、ボクは息をのみ、声もなかった。
 湾入に連なる陸の谷筋がかなりな奥まで、もののみごとに浚われて流失、白っ茶けた地肌が剥きだしになっていた。
 繰り返し押し寄せた津波が渦を巻き、烈しい引き波が決壊したダムさながらに、すべてを根こそぎ奪っていったのだ。

 瓦礫のなかを往き来する救援車両群、その轍が潮水でぬかるむ道は路肩がどこやら見当もつかず、気がつくとボクの車は町はずれに来てしまっていた。
 すっかり動転した心情を物語るように、ぼくのカメラにはこのときの、町中を撮った写真が1枚ものこっていない。

 翌2013年夏、ぼくは女川町地域医療センターのある高台に立った。
 下からは仰ぎ見るほどのコンクリート擁壁だが、津波はこれを乗り越え、当時の女川町立病院1階まで達している。
「ここにいたおかげさまで助かりました」
 手を合わせたお婆ちゃんは、いまもリハビリ入院中だ。

 高台から見下ろす町は、なにしろ平地が少ない。
 海岸べりのごく一部にしかない、といっていい。
 そこも〈嵩上げ〉がなければ安心できないということだろう、盛土の整地が進んでいた。

 そうしてこの春は、「限られた平場を活かして住まう」工夫を観に。
 町立総合運動公園内にあるという、「多層型コンテナ仮設住宅」なるものを訪ねた。
 (町民でもその存在を知る人は少なかったのだけれど…)
 その実際に出逢って、ぼくはビックリもし、ウレシくもなった。
 できて見ればナルホドなのだが、この思い切りによさはフツウではない。
 なんと、野球場のグラウンドだったところに、二階建て3棟・三階建て6棟の仮設が建っていたのだ。スコアボードも、スタンドも、そのままなのがかえって斬新、愛嬌があっていい。

 住まっている方々の感想は聞けなかったけれども、コンテナには見えない外観もよし、きれいに保たれたパブリック・スペースといい、コンパクトで快適な住環境は明らかであった。コレはイイ。
 これは、建築家・坂〔ばん〕茂さんのアイディア。氏はこの設計でアメリカのプリツカー賞を受賞している。災害支援にも取り組む異色の建築家に、被災地巡礼者からも賞賛のエールをおくりたい。

 もちろん、このアイディアを実現させるためには、町にもそれなりのすぐれた人材・人脈があったことだろう。小さな町ゆえの〈こまわり〉勝利…にしても、ヤルものだ。

 別の場所では、建築規制外のトレーラーハウス宿泊施設にも出逢った。
 復興作業に従事する人たちのためにも地元の宿不足を解消、しかも必要がなくなれば撤去も簡単、廃棄物もなし、というわけである。

 ぼくはどうやら、この女川町からも目が離せなくなりそうだ。
 ただし、楽観ばかりはできない。
 つい最近の調査報道によれば、岩手・宮城・福島の被災3県の市町村(仙台市周辺を除く)では、復興の遅れに伴う人口流出が止まらないという。
 ここ女川町でも、震災前の推定人口に比べて29%弱の減少だそうな。
 どちらかというと暮らし向きに余裕のある世帯が便利な都市部へと移り住み、ゆとりのもてない世帯がとりのこされる構図だ。この事態をどう乗り切るか。

 もうひとつは、原発マネーがなくなったとき、どうするか。
 世の趨勢からして、マイナス負担が大きすぎる原発は、いずれ廃れる。
 女川ほどに頭のまわる町なら、それくらいすでに〈お見通し〉であろう。
 ギンザケ、カキ、ホタテ、アワビにホヤの養殖と、金華山沖の豊かな漁場。
 漁港女川の明朗な活気で、これから先の困難も克服していってほしい。




*写真=上段、(上)は女川町地域医療センターから海側女川湾を望む2013年夏、(中上)は同医療センターから復興計画が進む陸側山の手を望む2013年夏、(中下左)は女川町総合運動公園野球場にできた二階建てコンテナ仮設住宅・後ろにスコアボードが見える、(中下右)は同じく運動公園内の三階建てコンテナ仮設、(下)はトレーラーハウス宿泊施設「エル ファロ」*
*写真=下段は2012年春、)(左)は牡鹿半島東岸の谷川浜(石巻市)、(右)は町域内に立地する女川原発