どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

悲劇はどこまで尾をひくのか…大川小学校(石巻市)/《3.11》2014春の巡礼12日目(つづき)

-No.0249-
★2014年05月28日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 1175日
★オリンピック東京まで → 2249日












◆慟哭の廃墟が風化していく…

 石巻市街から北上川へ、堤防上の道に出ると、とたんに夏空が翳った、哀悼の辞を告げるかのように。
 低く雲の垂れ籠めてくるなか、随所で破損の目だつ道を、低速で瓦礫処理のトラックが、支援の自衛隊車輛が断続する。
 2011年、《3.11》後はじめての夏だった。

 やがて…新北上大橋に近づくと、橋のたもとに臨時駐車の乗用車群があり。
 空きスペースに車を停めると、急ごしらえの慰霊の献花台の向うに、河畔の低地が広がって見え、そのなかに津波の惨禍を潜り抜けて遺された大川小学校の校舎の一部が、ぽつねんとしていた。
 あたりを走りまわるトラックなど関係車両の動きが、懸命に悲劇の現場を取り繕っている…かのように見えてしまう、そういう印象がぬぐえなかった。
 ここが、当時の在席児童108人のうち死亡70人、行方不明4人、教職員も13人のうち10人が亡くなった衝撃的な悲劇の現場である。

 ぼくの幼馴染の男友だちが、別行動で先にここを訪れ、「泣きながらクルマ転がして帰って来た」といっていた。彼は、小学校の教師を務めあげた経歴をもつ。
 ボクは、それ以上のことを友に問うことができなかった。

 『北上夜曲』という甘哀しい詞とメロディーの曲がある。
   匂い優しい白百合の
   濡れているよな あの瞳
   想いだすのは 想いだすのは
   北上河原の 月の夜

 歌声喫茶が盛んだった頃、アコーディオンの伴奏が胸に染みた曲が、ずっと、ぼくが北上川に抱く印象の根底をなしてきた。
 それが、無慙に壊されてしまったあとを、埋めるものとて、いまはない。

 ともあれ、それからずっと、付近を通りかかれば必ず、様子を見に寄りつづけてきた。
 たしかに、ここの場合の悲劇は大きすぎ、疑問も大きすぎたが、それだけではない。
「なぜ、これほどまでのことになってしまったのか」
 原因の究明をもとめる、その後の遺族たちと、市および教育委員会側との軋轢が生じ、こじれ、そうして、ぬきさしならない事態に陥っていく過程が、人々の関心を呼んだ。

 そこには、さまざまな要因が絡まりあっていることは想像に難くない…が、そのすべては、あまりにもモロにお役所的な、姑息な隠蔽体質から始まっていることに間違いはない。
 (信頼関係のあるべき方向へ、導いていける人もなかった)
 みずからの経験に照らしてもソレがわかる、庶民の同情も、ついに報われることなく。
 ついに、お役所側からの〈調査報告〉に納得できなかった遺族たちが真相究明と損害賠償を求めて提訴にふみきり、その第1回公判がつい先ごろあったばかりだ。

 そうした人の世の無常、やるせなさを、慰霊の祭壇“献花台”の時の流れにともなう変化が、沈黙のうちに語りかける。

 祭壇には、はじめ、遺族たちから命を奪われた吾が子への呼びかけ、語りかけが遺品や記念品と共に寄せられて、涙を誘っていた。
 そこに、1年の星霜を経るあたりから、変化が現れはじめる。
 持ち寄りの素朴な品々から、(おそらくはさまざまな善意の集積であろう)立派な仏像や祭具、慰霊の記念碑などに置き換わっていくうちに、情念・妄念は薄れていき、祭壇は遺族の〈もと〉から慰霊に訪れる人々の〈もの〉へと変わっていった。

 それが決定的になったのは、2013年夏。
 献花台が修築改装され、奥の方に新しい慰霊の祭壇が設けられ、ふんいきは別趣になった。
 どういう向きからの善意か知らないが、大きな寄進があったのだろう、けれど…。
 遺族たちの気もちにかなったものか、どうか。 

 (これも風化ではないのか…)と、ぼくはふと思う。
 とどまることなく流れつづける時の効用も、“風化”と無縁ではありえない。
 なればこそ、なおさらに、風化を想う暇もないほどの(復興とまではいわない)気もちの充足が望まれるのに。

 大川小学校は、“遺構”としてのこされることが決まっている。
 その設備を始める前に、どうか、関係者間の感情的なしこりが拭われていてほしい。
 “慰霊”の“遺構”には、他のいかなる思惑もいらない。

 願わくば、自然に適い、中天をめざし、川に憧れ、海を慕い、山を偲ぶ…もの、充分な高さとグルリ巡り見る回廊とをもった、航路・行路の目標となるものであってほしい。 
 












*写真=上段、(上左)は津波が遡り溢れた北上川下流域2011年夏、(上右)は北上川河口に近くに架かる新北上大橋・この橋のすぐ右手前方に大川小学校はあった2011年夏、(中左)は橋のすぐ脇高台にあった応急の献花台・それだけ弔問に訪れる人が多かった2011年夏、(中右)は廃墟となった学校前の献花台・中は関係者以外立ち入り禁止2011年夏、(下)2012年春の献花台・このときはすでに橋のすぐ脇にあった応急の献花台はなくなっていた・供養の品々や供花が増えていく*
*写真=下段、(上左)は2012年夏の献花台・供養の品々や台上周囲の整理もなされてきた、(上右)は2012年夏の大川小学校校庭・むき出しだった更地に草が生えてきている、(中2枚)は2013年夏に見られた変化、献花台は改装の最中、新たに奥に大きな慰霊の祭壇も設けられていた、(下3枚)は2014年春現在の大川小学校、献花台は新装成ったが“遺構保存”などの先行きは…*