どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

とりとめもなく想うこと…南三陸町/     《3.11》2014春の巡礼12日目(つづき)

-No.0248-
★2014年05月27日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 1174日
★オリンピック東京まで → 2250日









◆お魚の美味しいところ

 合併による南三陸町の誕生は2005年。
 ぼくは、それ以前の志津川町を「美味しい魚の町」と知っていた。
 ボクは魚の〈美味しんぼ〉だから、“海幸〔うみさち〕”には活きのいいアンテナが張ってある。
 でも、まだ訪れたことはなく、いちど行きたいと思いながら果たせないでいるうちに、こんどの大津波被災に遭った。

 それから、南三陸町というところが、とりとめなくなった。
 ボクにとっては、あの声から…。

 《3.11》のあの日、町の防災庁舎から声をかぎりに呼びかけた若い女性職員がいた。
「異常な潮の引き方です」
「早く、早く高台に逃げてください」
 その声を追うように襲いかかった津波の映像に、彼女の訴えはなおリフレーンして繰り返し聞こえていたかに思える。
 (もういい、逃げろ、あんたも)と祈ったけれど。
 多くの人々の背を後押ししたマイクの声は、やがて絶え、彼女は津波にのまれた。

 2013年春の新聞に、のこされた彼女のご両親が自宅を民宿に開業する、という記事が載った。
 「津波てんでんこ」の、娘の想いを伝えるために。

 ぼくは、その記事からひと月ほど後に、いつもの春の巡礼に旅立ったのだが…。
 そうして、はじめて南三陸町に宿をとったのだ、けれども、その民宿に泊ることは、やはり無理であった。

 袖浜の民宿に泊まった。
 坂道の途中のそこも、「すぐ下まで津波がきました」ということだった。
 港は後始末の浚渫作業に追われていた。
 生憎の煙るような小雨模様が、いっそう印象をとりとめもなくした。

 ことし2014年の春は、そのうら若い24の乙女の命を含め、町職員42名が亡くなった防災庁舎を訪ねた。
 庁舎は小さな川の流れに近く、意外な広さを感じさせる平らな土地にあった。
 聞くところによると、付近は沼地に土を入れた造成地、海岸部も江戸時代から続けられた干拓事業によるものだという。
 いっぽうで、町内にある縄文期の遺跡はすべて高台にあるのだ、と。
 だから、こんどの大津波は、海が取られたものを取り返したともいえるのだ、と。

 解体の方針が決まった庁舎には、なお「のこせ」と訴える声もある。
 だが……しかし、ぼくがその建物に感じたのは、すでに〈保存の意志を喪った形骸〉であった、コトバはすぎるようだが〈冷たい骸〉になっていた。
 町の意志は、もう他所を向いている。
 このような状態では、のこす意味がないと想えた。

 あの日の惨状のままのJR気仙沼線は、南三陸町でもまた、危うげな様子を見せていた。
 破壊されたレールや路盤がうちすてられたまま…ばかりでなく、レールを剥がされた後が舗装されている。
 「あぁ、線路はこんど、もっと山側にもってかれるんだそうですがネ」
 と、地元の人もあきらめ顔。
 その新舗装路が、BRT(バス高速輸送システム)の専用道路になっているようだった。









*写真=上段、(上2枚)は南三陸町袖浜の港、(下2枚)は冷たく静まりかえる防災対策庁舎*
*写真=下段、(上左)は清水浜駅付近の気仙沼線線路跡、(上右)は清水浜付近の気仙沼線レールの剥がれた路盤、(中左)は黒崎付近の舗装された後の気仙沼線路盤、(中右)は清水浜のBRTバス停、(下)は荒れ果てたままの戸倉港付近*