どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

街の懐の深さ大きさに救われる…気仙沼/     《3.11》2014春の巡礼・12日目(補遺)

-No.0246-
★2014年05月25日日曜日
★《3.11》フクシマから → 1172日
★オリンピック東京まで → 2252日








気仙沼…高台のホテルに迎えた朝(2013年春のこと)

 朝、薄明に目が醒めた。5時くらいだったろうか。
 ぼんやりと、眼下の港を眺めてときをすごした。

 ぼくは風景に遊ぶのが好きだから、飽きることはない。
 ましてや海辺、港町であればなおさらに、それだけでも充たされてしまう。

 ここは気仙沼港の「お魚いちば」のすぐ上。
 50メートルくらいある崖の上のホテルは、《3.11》の大津波にも足もとを洗われるくらいですんだという。
 その安心感からだろうか、不思議に深く、心がたいらかだった。

 ここ気仙沼被災地であったことを、けっして忘れたわけではない。
 津波が押し寄せ、海と街とをごちゃ混ぜに引っ掻きまわしたうえに、火と煙の海にまで化した。
 その後には、冷たい雪が無常に舞ったのも、しっかり覚えている。
 なのに、なぜ……。

 港には、まだ眠りこけている船もあれば、目覚めて背筋を伸ばしかけている船もある。
 一艘の舫い船に、別の船が近づき、人がホースらしきものを伸ばす…と、舫い船からも人が出てそれを手繰り寄せ、たがいになにやら声をかけあう。
 しばらくするとホースを回収した船は、舫い船を離れ、少し離れたところにいる、もう一艘の舫い船へと近づいて行く…。
 (ははぁ、給油船らしいな)とぼくは思う。
 あれは、まだ港の設備復旧が充分ではないからだろうか。

 そのうちに、朝陽が昇った。
 きらめく陽光の海原をゆく船があった。
 この長閑すぎるほどの気分は(なぜ、どこからくるのだろう)と思った。

 大島通いのフェリーが着く岸壁の、さらに奥へと陽射しが伸びて行くと、地盤の沈下した低地にできた水溜りが、冴え冴えと陽光を照り返した。
 その情景にさえ、不謹慎なくらいの美しさを感じてしまう。







 やがて、対岸に影になっていた浮見堂の辺り、壊れ遺された朱色の一部が、満ち潮に半ば隠れながら姿を現わす。
 ぼくらは昨日の午後、そこにいた。
 在りし日、夜はライトアップされて幻想的に浮き上がったという浮見堂は、見る影もなかった。
 崎上の五十鈴神社に、街の復興を祈ってきた。

 懐の深い湾の、なみなみと豊かな潮は、片時もたゆまない。
 (海だな…)とぼくは、沁み沁みと想う。
 母なる、おおらかなたゆたいの前には、微塵の怨讐なく、わだかまりもない。

 ……………

 山側にある高みの所在を教わって、ホテルを後にした。
 安波山は、街の背後、三陸自動車道を跨ぐ位置にあった。
 展望所からは、眼下の街から大島へ、気仙沼湾の懐の深さが一望できた。
 そればかりか、山側に延びる谷筋もまた、大らかに懐の深いことも知れた。

 (そうか…)と、ぼくは、そこでようやくナットクした。
 気仙沼の街が醸しだす“安気”とでもいいたいようなこの空気は、海山の懐の深さにあり、漁師町の潔さにあり、「街」と呼べる程よい大きさにあり、適当な人口にあった。
 永い時を経て培われたその街のDNAは、大震災にも大津波にも、けっしてめげることがなかったのだ…と。

 この特徴的なふんいきは、ほかにない。
 気仙沼がそうした街であるなら、この街はみずからを励まし、さらに周りまで手を広げて勇気づけていく、ムードメーカーの役割を担う星のもとにあるのではないか。
 ぜひ地域のリーダーであってほしい。
 



*写真=上段は気仙沼プラザホテルから2013年夏、(上左)は港町方面・岸の低地に水溜りのあるのがわかる、(上右)は唐桑半島から昇る朝陽、(下)は満ち潮の浮見堂方面・大島通いのフェリーが出て行く*
*写真=中段は気仙沼港口神明崎の浮見堂2013年夏、(上)はプラザホテル方面を見たところ、(下2枚)は震災で沈み壊れた浮見堂*
*写真=下段、(左)は安波山から気仙沼港・気仙沼大島を望む2013年夏、(右)は廃校になった気仙沼女子高校・なくすには惜しいくらい気仙沼の街“らしさ”に融けこんでいる*