どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

町そのものが袋小路のなか…釜石/      《3.11》2014春の巡礼・11日目(補遺)

-No.0238-
★2014年05月17日(土曜日)
★《3.11》フクシマから → 1164日
★オリンピック東京まで → 2260日


 



石井光太著『遺体』に記された場所

 《3.11》後、釜石の町中にはじめて入ったのは、2012年夏のことだった。
 ぼくにはオビエとキオクレがあったから。
 それまでは表通りを、車窓の荒れ果てた風景に息を呑みつつ通りすぎるばかりで、踏みこむことができないでいた。

「釜石をどう訪れたものか…」
 相談にのってくれたのが、Yさんという若い女性。
 しかし、ぼくは彼女をほとんど知らない。
 ソーシャルネットでの「友達」にすぎない。

 よくも、わるくも、人と人、面と向きあうことで乗り越えてきた、ボクら全共闘世代にはむずがゆいようなことだった、けれども。
 いまどきはそれでいい…らしい。
 親切に、率直に、教えてくれて、ぼくも素直にそれにしたがった。

 《3.11》直後の釜石ドキュメント、石井光太著『遺体』を読み。
 そこに登場した二つの寺と、御遺体安置所を訪ねて、港まで。
 その間、ほとんど想念はコトバにならなかった。
 (たたみかけられている)ようだった。
 
 高台の仙寿院からは、“釜”石の町の成り立ちがひと目で諒解された。
 町そのものが復路小路のようなものだった。
 (“釜石の奇跡”といわれ無事に逃げのびた子らを別にすれば…)
 人々はどのようにしてこの細い路地道を縫い、高みへ逃げようとしたのであろう。
 ふと、眩暈がするようであった。

 庫裡に声をかけると、本堂の、ご本尊裏、胎内ともいうべきところへ案内された。
 そこに、身元不明の御遺骨が12、二列に並んで安置されていた。
 お歳の方もあれば、幼い命もあって、線香の薫煙に胸がふるえる。
 ボクは中学・高校と仏教校に学んだから、なんとかお経を唱えることはできたはず、なのに、その場では般若心経の一節もでてはこなかった。

 この春、1年半ぶりに再訪すると、御遺骨は数が減っていて、いくらか心すくわれた。
 昨日、大槌ではまだ固かった桜の蕾がやわらぎ、気の早い組からそろそろ咲き始めていた。
 近所の方によれば「コブシが少ぉし早かった」そうだが、北国ではほとんど同時の花の春。








 石応寺にまわる。
 ここも、海からの距離は仙寿院と同じくらいだろうか。
 これまでの度重なる大津波みな、門前まででとまったといわれる。
 そのたびに避難所となった境内は、哀しいくらいに狭い。
 急な傾斜地に段々を刻んで開かれた墓地が、釜石の土地柄を如実に物語る。

 石応寺の参道横、広場に仮設商店街ができていた。
「近くに“鶴の湯”という銭湯があります」
 この情報もYさんからだった。

 その晩、大槌北小の宿泊所“きらりベース”から、ぼくらは彼女のおすすめにしたがって“鶴の湯”へ入浴ドライブにでかけ、銭湯の女将さんの笑顔にようやく気もちがほぐれたのを想いだす。




 町中から少し上がった八雲町。
 昭和園の仮設団地では、ボランティアによる夏休みイベントの準備中。
 そのすぐ先に、旧釜石第二中学校。

 すでに、その年の春には閉鎖になっていたけれど、ここが釜石で最後までのこされた御遺体安置所であった。
 校庭の入口脇には、「行方不明者相談所」併設の看板がのこっており、体育館の安置所には身元不明の方9人の似顔絵…。

 別棟に、警察の運転免許センターが同居してくれたぶん、そこはかとない人間くささにいくらか救われたが。ときの流れによどみなく…。
 どちらも、いまはもう、そこにない。

*写真=上段、(左上)は仙寿院から見た釜石の山側斜面方面・この辺りは助かった家が多い、(左下)は境内に咲き始めた桜とコブシ・コブシのあとを追ってすぐ桜、(右)は同所から1年半後の海側の町並み・津波の痕がクッキリ向うに海が見えている2012年夏*
*写真=中段はいずれも2012年夏の撮影、(上左)石応寺本堂・境内に車を駐めなけれならないほど狭い町中、(上右)は傾斜地に段を成して開かれた石応寺墓地、(下)は山門前の左右に並び建てられた《3.11》の慰霊碑・檀信徒の犠牲者250人以上*
*写真=下段はいずれも2012年夏の撮影、(右)は遺体安置所になっていた旧釜石二中、(右)は港近くにのこった鉄筋建築の丈夫な建物・ほんどの民家はカタチをとどめず瓦礫と化した*