どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

大槌だ、仮設だ、“木工ワークショップ”だ!/  《3.11》2014春の巡礼・10日目(つづき)

-No.0231-
★2014年05月10日(土曜日)
★《3.11》フクシマから → 1157日
★オリンピック東京まで → 2267日

*3Dプリンターには、ボクも興味津々。「怖いようだね」とも思っていたら、やっぱり、実用できる拳銃を作っちまった奴が逮捕された、という。「我慢しろ」「よしとけ」の自制がきかなくなった世の中が驀進する。犯罪の後を規制が追っかける。ずいぶん前からこんな調子だ*







◆ナニかデキないか…

 ぼくは、ずっと考えていた。
 避難所から仮設住宅に住まいが移ると、プライバシーが保てるようになった、かわりに、人とのつながりが保ちにくくなった。
 被災の真相は個々にことなり、住み処をうしなった心中は、他人にはけっしてはかり知れない。

 孤立をふせごうとする親切が、余計なお世話だったりもする。が……
 ボランティアは究極のお節介だ、とぼくは思い極めていた。
 断る、無視する、追い返す、などはアチラの勝手。コチラには精一杯の気くばりと、めげない心もち、あるのみ。

 はじめは、避難所を訪ねることすら、できなかった。
 取材記者でもなければ、医療やカウンセリングなどの専門家でもないのだ。
 (用もないのに…)
 事情は、仮設住宅になってからも同じことだった。
 そこでの暮らしぶり、あれこれの事情も知らずには、お節介もままならぬ。
 ことに組織ではない、個人の立場ではなおさらだった。

 けれども、かならず〈すきま〉はある、〈すきま支援〉こそ個人の役どころであろう。
 (ナニかデキないか…)
 ボクは、高年男性層の(居どころのなさ)が気になった。
 女性陣むけには、すでに、さまざまな手芸関係の“なりわい”支援の申し出があり、どこの集会所でも講習会の花盛り状態であった。

 では、男性陣はというと(仕事のある人は別として)、カラオケか囲碁・将棋、近所の散歩にも飽きると、あとはボンヤリ時をすごすしかない。
「婆ちゃん嫁さん連中にはイドバタがあるが、男どもにはそれがない」
 という観察がある。
「父ちゃんたちの、いちばんの気がかりは家のこと、補償と再建で頭がいっぱい、母ちゃんたちとは、そこが違う」
 さらに深い洞察もある。
 






 ナルホドそうではあろう、が、そういう人ばかりでもあるまい。
 2012年の夏ごろから、ぼくは模索を始めた。
 ぼくには「木づくり」の技術と講師経験がある、ヨシ、これで行こう。
 ひさしぶりに味わう、緊張と試行の日々だった。
 木工の工夫より、それ以前の、現地関係者との〈やりとり〉に苦労させられた。

 そうして、最初の木工ワークショップ「きつつき集会」は2013年4月、小鎚の仮設団地集会所。
 小さな集会所で、座卓であった。一般にこのカタチが多いが、木工には不向き。
 ノコギリなどの道具が使いにくい。
 それでも、男性3人・女性5人の参加は、ウレシかった。

 人数分の道具類と、下ごしらえした材料を東京から持ち込んでのイベントである。
 朝の9時から12時までの3時間は、アッという間。
 吉野ヒノキの材料で、女性には「飾り台」を、男性には「ボックストレイ」を。
 なんとか仕上げおえて、部屋は笑顔と木の香でいっぱいになった。

 しかもこのとき、Sさんという同志的な人と知り逢えたことも大きかった。
 (Sさんはボクと同年、同月の生まれ。彼は釣り人、ぼくは飲み人)
 女性陣こころ尽くしのお昼をご馳走になって、おいしい一日でもあった。

 2回目と3回目の木工ワークショップ「きつつき集会」は、その夏。
 やっぱり、条件のいいところで、思いっきり楽しんでほしかったから。
 こんどは大槌の大きな集会所で、椅子とテーブルで道具使いも活き活き。
 7・8月の連続開講で、10人ばかりが2つの手づくり作品を完成させた。

 この連続講座には、Sさんがお手伝いかたがた参加してくださって、交流が深まった。
 と同時に、その後の「げん木かい」活動、“ハートの復興タグ&ペンダント”募金へとつながったのであった。
 https://www.facebook.com/genkikai.TA
 究極のお節介、〈すきま支援〉にも、花は咲く。
 





 こんどの大槌訪問では、2014年夏4回目の「きつつき集会」のため、皆さんと顔をあわせて一層の意志疎通、が目的のひとつだった。
 こちらの勝手なスケジュールの都合、にもかかわらず、お二人のSさんと会談でき、Dさんとはメールでやりとりができた。

 (同い年の)Sさんから《3.11》の体験談を聞いたのは、じつは、これが初めてだった。
 こういう微妙なことには、時と呼吸と間が必要なのだ。

 Sさんはあの日、グラッときたとき家に居た。
 不気味なものを直感した彼は、車にとび乗ると勝手知った脇道・細道を走った。ふだん釣行の積み重ねが役立ち、さいわいに渋滞に巻き込まれることもなく、無事、三陸自動車道の高みへ逃れることができた。
 そこで津波の襲来を見た。怖ろしい下界のできごとだった。
「運がよかったです、ほんとに」
 高みの自動車道は、同じようにして津波を逃れてきた人たちでいっぱいだった。

 Sさんの奥さんは仕事で、お隣り山田町の介護施設にいた。
 その日、たまたま来ていた所用のバスに、皆と同乗して逃げ、助かることができた。これも運がよかった。
 Sさんは、知人に会って奥さんの無事を知り、2日後には会うことができている。
 たびかさなる幸運のおかげ、といっていい。

 Sさんは、町が造成・整備する宅地に家を建てるつもりでいる。
 前の家があったところに、再建はできない。
 それでも、息子さんが釜石に職と住まいを得ているので、心づよいという。
 それが無かったら……さて……。

 河口の水門すぐ近くに住んでいた、もう一人のSさんも、立場はおなじ。
 仮設住宅が傷んできてはいるが、「新しくできる住宅地の造成が遅れても困る」ので苦情をいうのはヤメておいた、という。
 ここ大槌にのこるときめた理由は、息子さんたちと二世帯で住めるから。
 それが無かったら……「他所へ行ってたかも」……であった。

 お二人には、キビシさを凌ぐ家族の〈つながり〉があって、よかった。
 お二人とは、夏に「また逢いましょう」と笑顔で別れることができた。
 アリガタイことであった。

*写真はいずれも大槌町、(上段)は最初の「きつつき集会」2013年春4月、(中段)は2回目の「きつつき集会」2013年夏7月、(下段)は3回目の「きつつき集会」2013年夏8月*