どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

大槌あれこれ…赤浜・ひょうたん島のこと…など/ 《3.11》2014春の巡礼・10日目(つづき)

-No.0230-
★2014年05月09日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 1156日
★オリンピック東京まで → 2268日

*この記事に関連するさまざまな事情や詳細については、以下3つの過去記事をご覧いただきたい。
〇渋柿は夜汽車にのって…〈三点リーダーの記〉2011.08.23「〈3.11〉被災地巡礼(1)…一か月後の被災地大槌へ-災害派遣・天晴れ自衛隊・すきま支援-」
http://trouble-heart.hatenablog.com/entry/20110823/1312103100
〇渋柿は夜汽車にのって…〈三点リーダーの記〉2011.08.30「〈3.11〉被災地巡礼(2)…一か月後の被災地大槌へ-潮干の救援街道・立憲君主制・個人情報-」
http://blog.hatena.ne.jp/sashimi-fish1/trouble-heart.hatenablog.com/edit?entry=12704591929890116973
〇渋柿は夜汽車にのって…〈三点リーダーの記〉2013.06.19「一年後の被災地巡礼(6)-遠野まごころネット・瓦礫二次撤去・復興食堂-」
http://trouble-heart.hatenablog.com/entry/20120619/1340094365









◆縁があった大槌町、赤浜のあたり

 あの2011年、《3.11》の1か月後に、初めて入った被災地が大槌町だった。
 真っ先に大槌高校の避難所に支援物資を届け、(しばらく茫然と佇んだ)その後、泥泥のぬかる道をそろそろ進んだ先に赤浜の惨状を見たとき、ぼくは息を呑むと同時に(表現しようのない別な)つよい引力を感じていた。

 民宿を営む鉄筋家屋の屋上に、うまいこと乗っかったのはいいが下りられなくなってしまってミジメ…みいな観光船「はまゆり」の姿に…、
「なんでぇ、チガウでしょう!」
「あんた、こんなとこでナニしてんの」
 思わず近親を叱りつけるような声が出たのも、そのせいである。

 その赤浜が、待っていてくれた。
 1年後の早い春、遠野まごころネットからの派遣ボランティアで、たまたま瓦礫2次撤去作業にやってきたのが、また赤浜。
 観光船「はまゆり」が撤去された後の建物が、活動の拠点・作業道具置き場になっていた。
 わずか2日間の活動だったが、親しみは定着。
 すぐ上にお寺さんがあり、隣りは赤浜小学校。その外階段が飴細工みたいにグニャリと、へし曲げられていたのが強く印象にのこっていた。

 こんど、そこへ行って見ると、赤浜小学校の被災校舎はなくなって校庭に記念碑が建ち、体育館の壁には嵩上げの目標が赤い下向き三角で標されていた。4~5メートルはあるだろう。
 漁師町赤浜は、逸早くまとまって復興に立ち上がり、町を動かし、住宅の高台移転と、あくまでも常に「海の見える」地区復興を基本に、息さかんらしい。








 赤浜の、目と鼻の先の大槌湾、海上には蓬莱島。
 古くから町の人たちに愛され親しまれ、井上ひさし作『ひょっこりひょうたん島』のモデルとしても知られる。
 ボクも、このNHKの人形劇には、ずいぶん親しんだ。
 その『ひょっこりひょうたん島』の主題歌が、毎日、正午の町に防災無線で流れる。ぼくらはそれを瓦礫撤去活動の昼休み聞いた。

 蓬莱島にも、いろいろなことがあった。
 あの大津波が(跨いで越えて行ったのではないか)といわれるほど、(岸の被害が大きかったのに比べると)島は奇跡的に助かり、赤い小さな灯台も一部がのこった。
 同じ年(2011)の夏8月に、ぼくが見たときはそうだった。
 けれども、土台は酷く傷んでいたに相違ない。
 翌年(2012)の夏には、崩落して波間に消えて、町の人々を落胆させ。
 しかし……すぐ翌年(2013)の春には、(バランスやデザインはいまひとつだったけれども)とにかく新しい灯台ができ。
 そうして、こんど訪れたときには昔どおりに、岸からつながる防波堤が復元していた。

 ザンネンなのは、町の復興がこれに追いつかない。
 どこでも事態はおなじだ…けれど、モニュメントの先行ばかりが目立つ、いま現在である。
 





 国道45号のバイパスが通る、大槌川の左岸。
 ぼくたちが、この町で最初に訪れた大槌高校からも近いところに、町立北小学校があった。
 震災1か月後のときは、瓦礫と泥土のなか、漠然と荒れ果てた風景のなかだった。
 (ぼくは車を路傍に寄せることも、ましてや風景にレンズを向けることもできなかった)

 同じ年の夏に訪れたときには、校舎の片隅で先生が二人、壊れた自転車の修理に汗を流しておられた。
 はじめ町は、同じ場所での学校再建を目指すつもりでいたが、保護者たちの反対の意向で断念、高台移転することになり、かわりに、校庭には復興商店街が仮設されることになった。

 2012年春には、「福幸きらり商店街」ができていた。校舎はまだ、そのままだった。
 2012年夏には、取り壊す前の校舎を借り、遠野まごころネットの現地宿泊スペース「きらりベース」になっていて、ぼくらもここにお世話になった。
 商店街の飲食店で夕飯をすませ、学校2階教室に並べた寝袋に潜り込む前のひととき、中庭で演じられた郷土芸能「虎舞」を鑑賞してすごした。
 蚊の襲来が心配だったけれども、さいわい、開け放った窓からは心地よい風のほか入ってはこなかった。 

 その年の冬12月、氷雨降る日の「大槌鮭帰願祭」にも、ぼくは来ている。

 その後、北小校舎は解体撤去されて、福幸きらり商店街がのこされ、向かい合う空地にはスーパーマーケットができた。
 商店街も「きらり」ではなくなった様子、そろそろ次のステップのときか…。

「よぉ」
 こんど訪れた元の校庭に、ぼくが声をかけたのは古びたポスト。
 それは、ずっとそこにあったものかどうかは知らないが、「きらり」の商店街ができたときはすでにそこにあり、学校が取り壊された後も、元の校庭の隅っこにのこされていた。
 乱暴にされて傷ついて、このままだといずれ消えて無くなりそうだ…が。
 かつて商店街裏にあって、いまはない、古ぼけちまった外灯とともに、ボクの記憶には刻まれて、のこり続けることだろう。





*写真=上段、(上)は大津波1か月後の赤浜・観光船「はまゆり」(2011.04)、(中上左)は翌年春ボクたち遠野まごころネットのボランティアが瓦礫2次撤去に入ったときの赤浜(2012.04)、(中上右)は隣接する赤浜小学校の津波被害も生々しい外階段(2012.04)、(中下左)は校舎が解体撤去された後・現在の赤浜小学校校庭(2014.04)、(中下右)は同小学校の体育館壁に標された土台嵩上げの目印(2014.04)、(下)は瓦礫2次撤去後ほぼ同じ場所にできたイタリアン・レストラン「バールリート」(2014.04)*
*写真=中段、(上)は被災1か月後の赤浜漁港(2011.04)、(中上)は翌年夏の蓬莱島(ひょっこりひょうたん島)・旧灯台の一部が残っている(2011.08)、(中下)は2年目の夏・崩壊して消えた旧灯台(2012.08)、(下左)は新しい灯台ができた蓬莱島(2013.04)、(下右)は島に渡る防波堤も完成した現在の蓬莱島(2014.04)*
*写真=下段、(上左)は校庭が福幸きらり商店街になった大槌北小学校(2012.04)、(上右)は遠野まごころネットの「きらりベース」になった北小玄関(2012.08)、(中左)は福幸きらり商店街(2012.08)、(中右)は商店街中庭で演じられた「虎舞」(2012.08)、(下左)は商店街裏にあった外灯(早朝の残月)もいまはない(2012.08)、(下中)は北小の校門傍にあった古いポスト(2012.08)、(下右)はいまも〈独り〉のこるポスト(2014.04)*