どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

「津波てんでんこ」田老町の将来/     《3.11》2014春の巡礼・8日目(つづき) 

-No.0224-
★2014年05月03日(土曜日、憲法記念日
★《3.11》フクシマから → 1150日
★オリンピック東京まで → 2274日








田老町の長大な防潮堤

 《3.11》後、はじめて訪れたのは2013年の春だった。
 ずっと以前の夏、盛土路盤の高みにある田老駅に降り、風に誘われるままに港まで歩いたことがあったけれども、きらきら照り返す海の記憶ばかりで、防潮堤の記憶は靄っと薄いのだ。
 ぼくは(閉じ籠めるもの)とか(遮るもの)とかが嫌いだったから…かも知れない。

 あらためて見るそこは、コロシアムか野外劇場のようであった。
 実際この町は、北からにせよ南からにせよ坂道を下った低平地に開け、岸へとくびれこんだ海が「釜」と呼ばれる地形を成す。釜の底の方に集落がある。
 港にうってつけの湾入であり、しかしまた裏を返せば、津波の餌食にもなりやすい。

 〇1896(明治29)年、明治三陸地震、15メートルの津波、全345戸流失、死者1867人。
 〇1933(昭和8)年、昭和三陸地震、10メートルの津波、500戸が流出、死者911人。
 *翌1934(昭和9)年から防潮堤工事が始まり。
 *1958(昭和33)年、ひとまず海面からの高さ10メートルの堤防を造築。
  さらに工事を進め。
 〇1960(昭和35)年、チリ津波の襲来を被害軽微にとどめ。
  田老は「津波防災の町」として一躍、有名になった。
 *1979(昭和54)年、総延長2433メートル・X字状二重の「万里の長城」を完成。

 そうして、しかし……こんどの《3.11》大津波はこの防潮堤を超え、町を攫い流した。防潮堤が津波の威力を少しは削ぐ役に立ったのかどうか……。
 損傷を受けながらも「万里の長城」はのこったが、町はほとんど壊滅した。

 いまも瓦礫処理のダンプが、しきりに行き交う町。
 防潮堤のなかにいると、海はまったく見えない。
 分厚い(最大幅25m)コンクリートの壁には、海だけでなく、警戒心さえ見えなくしてしまうものがあるようだ。
 (この厚さには放射線も歯がたつまいと想う)






 防潮堤の上を、あるいは堤防の狭間を歩く人の姿がある。運動かも知れないし、それだけではないのかも知れなかった。その一人、高齢の女性はつぶやくようにいっていた。
「気をつけるようにって、ねぇ、いわれていたのに、忘れたつもりもなかったんですけど、ねぇ、やっぱりどっかに油断があったんでしょうか、ねぇ」

 あの日、大津波の黒い波頭が防潮堤を超えて流れ込むのを、見つけて「逃げろぅ」と叫んだのは山際の人々だった。釜の底の人々は気づかずにいた。
 あのときの切羽詰まった状況のなか、大津波の襲来におののくドキュメント映像の前景に、それと気づかずに国道を走る車が写っていたのを、ボクも覚えている。

 「津波てんでんこ」の教えは、どこかへ消えた。
 (これも田老町が産んだ防災文化である)
 人それぞれに、それこそ(てんでんばらばら)に、警戒心さえ忘れなければよかったのに。
 無意識に人は「ひっくるめて守られている」ように錯覚して、自然の脅威に背を向けてしまったのだろうか。

 その瓦礫の跡に、タンポポの黄が鮮やかにすぎた。
 暗い夜道に灯される心づくしのランタンが、路傍につくねんとしている。

 そうしてこの春は、つくねんとしたものが、もうひとつ、ふえていた。

◆震災遺構「たろう観光ホテル」

 あれから3年が経って、のこった防潮堤の損傷したところには、真新しいコンクリートの白が傷痕を覆う包帯のようであった。
 その防潮堤、X字状の上の二方向、東手と西手の間に(遺される)ことになったホテルはある。

 (いつになったら…)とボクが痛ましく想うのは、とりあえず残されたまま、手つかずで置かれるのはなにしろ酷にすぎるからだった。
 (なんとか)してほしい、早くしないといけない。

 さかのぼる2003年春、昭和三陸津波70周年に「津波防災の町宣言」を謳い上げた旧田老町
 それには「近代的な設備におごることなく」という誓いと、「文明とともに移り変わる災害への対処」の心構えが述べられていた。
 《3.11》が、それを超えた。

 じつは、昭和の大津波あとの復興策として、すでに「高台移転」の提言はあった。けれども、さまざまな異論に押し退けられた、という。
 当時の村長も、「漁師が高台に移っては仕事にならないし、そんな場所もない、だから防潮堤を造る」気で、そうして結局、元の危なっかしい場所に集落は居座ることになった。

 《3.11》の大津波では…
 〇海側の防潮堤が約500メートルにわたって崩壊。
 〇目撃証言によれば「津波の高さは堤防の倍あった」といわれ。
 〇地区人口4434人のうち200人近い死者・行方不明者をだした。






 震災から半年後の調査では「住民の80%以上が高台移転に賛同している」と聞いた。
 「てんでんこ」の呼び声に呼び覚まされた、といってもよかろう。
 おなじ漁仕事といっても、いまは船の装備も港の設備も昔とは格段に違う。「職住分離」も夢のような理想ではなくなっている。

 たとえば、田老の集落から10キロほど浄土ヶ浜の方へ寄ったところ、宮古市崎山地区がいま冗談まじりに「田老タウン」と呼ばれている。
 行政の高台整備を「待ってはいられない」田老の人たちが仮設住宅を出て、新開の住宅地に土地を求め住まいを新築しはじめている。そうした自主的な動きが目立つ、ということだ。

 そのあたりは、高台というより崖上といったほうがふさわしいほど、海の見晴らしのいいところ。
 津波に襲われる心配はまずないし、奥まったところにある休暇村陸中宮古は、つい1年ほど前までは被災地支援のボランティアに宿所を提供していた。

 「この土地を離れたくない」というコトバの裏には、家族のあれこれや暮らしの経済などなど、けっして“郷土愛”だけではないさまざまな事情が隠されているのだった…。







*写真=最上段は、2013年春4月の田老町防潮堤「万里の長城」惨状、堤防上から(下2枚)は奥に「たろう観光ホテル」の廃墟が見え、港復旧工事の様子も知れる*
*写真=中・上段は、瓦礫撤去跡のタンポポと、非常用の手造りランタン・スタンド、三陸鉄道北リアス線田老駅(絵画風画像処理、宮古-小本間はひと足早く開通していた)*
*写真=中・下段は2014年春現在の田老町、震災遺構として保存されることになった「たろう観光ホテル」がつくねんとしていた*
*写真=最下段、(左)は宮古市崎山地区の仮設住宅団地、(右)は同じく崎山地区「田老タウン」の新築住宅地、(下)は崎山の奥鍬ヶ崎の休暇村陸中宮古遊歩道(遠くに重茂半島の月山が見えている)*