どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

「放射線像」に脈うつもの/          「いのち」の成長と循環にまつわる真実の怖さ

-No.0220-
★2014年04月29日(火曜日、昭和の日
★《3.11》フクシマから → 1146日
★オリンピック東京まで → 2278日





◆オートラジオグラフ(放射線写真)なるもの

 新聞紙面を大きくさいて紹介されたモノトーンの写真を見たとき、ぼくはトクンと心臓の脈拍が高鳴るのを覚えた。
 そこには「いのち」が脈うっていたから、美しくあるべきだったが、無音に鎮められた警鐘を鳴らしてもいた。
 見えない禍々しさを秘めた循環と汚点に、〈繊細の精神〉を鋭く突かれたようだった。

 「放射線を撮る」と題された、その写真は美しい鳴き声でも知られる福島の“県の鳥”キビタキ
 ぼくにはそれが、賢治世界の『よだかの星』にイメージされた。

 紙面では、その写真のわきに『春と修羅』の序、抜粋文が掲載されていた。
 東京新聞のそのものが優れた紙面(4月19日付)でもあった。

 森住卓さんの作品は、オートラジオグラフ(放射線写真)と呼ばれるもの。被写体から放出される放射線を捕らえて画像化する。
 しかし……映像化される被写体には、すでに「いのち」がない。
 ぼくが画像から受けた、美と醜の狭間に架かる「あやうさ」は、ソレだった。

 加賀谷雅道さんの『放射線像』展があると知ったのは、それから間もなく。
 (導かれる流れ)を感じて、でかけた。

 ギャラリーは、部屋数の多い洋風住宅の、間取りをつないだ展示スペース。
 そこに、サクラやモミジ、ツクシ・キノコといった植物、ヤマドリやヘビ、コイ・ネズミなどの動物、軍手・はさみ・長靴そのほかの生活用具…etc…。20数点が、懸命に凝っと、こらえて、おとなしく、息をひそめているようだった。
 
 観る前のボクには、いくつかの連想と映像があったのである。
 ひとつは、「シラウオのおどり(喰い)」のガラス・カップ、底に笹の若葉が敷かれた水に、ちいさな「いのち」がそよいでおり、黒い二つの目と背骨、ポチッとした内臓が透けていた…。
 もうひとつは、中学のとき、生物の実験で調べた植物の葉の、葉脈の手強いほどのタシカさ。苛性ソーダ液で葉肉を洗い落とされながら、なお、組織の力強さを失うことがなかった…。

 「放射線像」は、そのイメージによく似て、しかも、じつはまったく異なる様相、ツカエて消えることのないヤッカイ…というようなものであった。
 それが“被曝”あるいは“汚染”の実相。
 したがって、物より生物に、めぐるいのちのつながりに、グッと胸にこみあげる厭わしさを禁じえなかった。

 生命体のなかで放射性物質は、循環系をつたって紛れもなく導かれ、筋肉に濃密に蓄積されていく態が知れた。その態が、薄いとはいえフクシマに関わるボクの身内にも、血のめぐりとともに感受される。
 植物画像のなかには、つい先ごろ訪ねたばかりの飯舘村佐須、山津見神社裏山で採れたタケノコの記録もあって感慨ふかかった。
 (その折りの訪問記は後日お届け)
 
 音なく、臭いなく、姿もない。
 見えない影には、つい怯えることすら忘れるヒトを想うと、「放射線像」「放射線写真」のカタチをとって広く知らせることの大切さ、いうまでもない。

 この日(28日)は「放射線像」展の最終日、さいわいご本人にも逢うことができ、その旨お願いもして帰った。
 ここではwww.autoradiograph.orgをご紹介しておこう。

 この映像展があったのは、ギャラリー「やさしい予感」。
 目黒駅からギャラリーへ歩く道筋には、防災の「ホーチキ(報知機)」本社。
 他意はない、が、めぐりあわせの妙を感じたことだった。 




*写真はすべて、ギャラリー「やさしい予感」に展示された加賀谷雅道『放射線像』展の風景*