どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

ソチ・オリンピックを終えて/          ふえる競技・種目とメダル合戦    

-No.0156-
★2014年02月24日(月曜日)
★《3.11》フクシマから → 1082日
★オリンピック東京まで → 2342日

 恒例の大会掉尾を飾る男子アイスホッケ決勝。
 さすがのカナダが、国技のパワーと巧みな技とでスウェーデンを圧倒。
 ソチ冬季オリンピックを終えた。
 
 心配されたテロもなく無事…
 しかし、これだけ物々しい警備がなければ開催できない“平和の祭典”とはなにか、考えさせられてしまう。

◆〈国別メダル数〉に一喜一憂する愚々怪々

「勝った、負けた」に、歓声あげたり嘆いたり。
「多い、少ない」に、国民こぞって一喜一憂。
 その気もちワカラナイではないけれど、オリンピックの栄冠・栄誉はあくまでも個人のハナシだ、ということを皆さんお忘れではないか。
 彼らは、国の代表ではあるが、国や国民を背負ってはいないし、背負えるわけもない。
 まずはじめに、そこに誤解があると、まるで国民すべてが選手団役員みたいな錯覚におちいり、ひいては感情の抑制をきかなくさせる。そうして、それが選手にいたずらなプレッシャーをかけ、贔屓の引き倒しを招いたりする。
「たかがスポーツ、されどスポーツ」でありたい。
 
 ジャンプの葛西選手は男子団体銅メダルのインタビューで、息子ほど齢のちがう若手選手たちに「メダルをとらせてあげたかった」といった。これが、選手の本音。
 いっぽうで、選手団派遣関係者はほとんどが、国として「メダルをとりたい」意識であったろう。彼らにとっては、あいかわらず古めかしい“国威発揚”のオリンピックであるらしい。
 このズレは、ほとんど大活断層に匹敵する。
 こんどのソチ冬季オリンピックが始まる前にボクが…

◆カタチはそろったものの、いまひとつ脂がのっていない

 …と漏らした理由は、この感覚のズレが気にかかったからだった。
(-No.0124-2014年01月23日記事参照)
 結果「獲得メダル数8個」は「海外開催オリンピックで最高の成績」と、報道はみな手放しだが、内情はけっこうお寒い欠陥家屋のようなものだ。

 ニッポンは〈大国病〉を患っているのだと思う。
 欧米先進諸国のように、なりたくてしようがないらしい。
 “国費を労費”し“国状を疲弊”させても、メダル大国になりたいようだ。

 いちど〈経済大国〉と呼ばれたからといって、浮かれることはない。
 けっして大きくはない日本の国土、成長に歯止めがかかって減少する人口、などの要因を冷静に見きわめれば、もっと謙虚であっていい。
 いまだって、ずいぶん無理をして分を超えている。気が緩んでいる、といってもいい。
 けっして生活が楽じゃない国民感情の、オリンピックは捌け口か……。

 選手たちのなかに、「応援してくださる国民の皆さんに」という言葉で、懸命に配慮のコメントを口にする人がいる。教えられたとおりに…というフンイキがまる見え。
 この種のコトバは、選手の口先からではなく、心の底からでたものでなければ、人の心にも響かない。…ということを。指導的な立場にある人は肝に銘じたほうがいい。
 若い世代の選手が、手放しで喜びを弾かせる、家族への想いが先に立つ。あたりまえじゃないか、それでいいのだ。そのあとに、ふと気がついて(見えない国民の皆さんに、代表として派遣してくれた国に)「ありがとうございました」の言葉があれば、それでイイ。

 日本は、スポーツ新興国のレベルからはようやく脱した。
 けれどもまだスポーツ先進国への道半ば、発展途上国といっていい。
 国のレベルでの諸々の配慮、「相手をほめる」度量に欠ける。

「メダルを噛むな」という人が現れて物議をかもす。
「品位がない」のはそのとおりだろうが、「メダルに対して失礼」はトンチキでしかない。
 あれは、取材者の立場でボクにも覚えのあることだが、カメラマンがいい写真を撮りたさの注文である。だから選手を叱るのは的ハズレ。選手でもじぶんに独自の美学がある人、感性でなっとくできない人は、注文されてもけっして齧りはしない。
 また、メダルを噛んで絵になる人(たとえばマラソンの高橋尚子)と、下品にしか見えない人とがある。その意味では、メダルの可能性がある人は(自分はどっちか…)ヒマがあったら考えてみるのもいい、かも知れない。その程度の、つまらんことだ。

フィギュアスケート団体というのは…ありゃなんだ

 
 森嘉朗オリンピック組織委員会会長(元総理)が、浅田真央について「あの子はいつも大事なときに転ぶ」と評して、ブーイングを浴びた。
 あの森さんて方は、運に恵まれて総理になったときから、立場をわきまえることのできない“ガキ大将”だったから、組織委員会会長には不向きな人選以外のなにものでもなく、ボクなども困ったものだと思っているのだけれど。

 しかし…彼が「日本がフィギュア団体に参加したのは間違いだった」という指摘は、いいところを衝いていた。
 スポーツ界(とくにラグビー)に幅を利かせているだけあって、競技団体の内部事情を裏まで心得ているのかどうかは、ともかく。

 フィギュア団体(男・女シングル+ペア+アイスダンスの4種目、それぞれ2競技、計8競技で競う)がオリンピック種目になった事情は知らない。
 いずれにしても「メダル数を増やしたい」、どの競技団体にも共通の“欲”に違いはないだろう。
 いいかげんにしてほしい。そこがまず、問題。
 次に、ペアやアイスダンスにこれまで(ナゼか)縁が薄く、選手層も薄い日本が、初めてのこの種目に「ひょっとすると獲れるメダルがふえるかも…」みたいな欲をもったとすれば、それこそ噴飯ものだろう。
 フィギュア大国に比べてあまりにもバランスがわるすぎ、「かも…」のレベルにも達していない。
「参加しない手もあった」と森さんがいうのは、けっして間違っていない。
 不利(お荷物)が明らかなペアとアイスダンスの、選手も気の毒。ついでにその分まで、男・女のシングルに負担がかかった。男子シングルの羽生結弦くんは、好調と自信で乗り越えたが…。
 現実の結果をいうまでもなく、この余分な団体競技があとの個人競技にも大きな悪影響をのこしてしまった。

 新らしい競技が次々に参加希望の名乗りをあげ、現存の競技もみな種目増を目論む。
 この状況は、「地球環境を食い潰しての発展成長にもかぎりのあること」が明きらかになってきたいまこそ、反省すべきときではないか。
 好きなスポーツ種目といえども、「費用と負担には限りがある」ことを知るべし。

◆ “お家芸”をきちんと保持する賢さ

(もちろんメダルはあくまでも個人の栄誉、その集積の上に、参考までの国別メダル数…とわきまえてのハナシだけれど) 
 たとえばオランダ。
 スピードスケートの1競技で、このオリンピックでも23個のメダルを獲得、しかも男子500m・5000m・1万m、女子1500mでは金銀銅を独占。
 1大会1競技で金8個もみごとなら、通算メダル数これで103個もすばらしい。
 
 おなじく、オーストリアはスキー・アルペンで通算110個。
 ノルウェーはノルディック・スキー距離で通算103個。
 国(民)の“お家芸”が、栄冠・栄誉を手にする選手個々に自信を与え、誇りにもなっている好例である。

 「なにもかも」ではなく、「得意と特性」をわきまえての、選択・強化はとうぜんだろう。
(各競技者・競技団体にも、そこをしっかり認識したうえでの取り組み努力が求められる)
 日本の、スポーツ振興の将来を考える上でも、たいへん示唆に富んだことではなかろうか。