どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

“瑞穂の国”…は切ない願望の美称

-No.0146-
★2014年02月14日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 1072日
★オリンピック東京まで → 2352日



 「高温多湿の日本は農業に不適な国」
 という指摘に、目から鱗が落ちる思いがした。

 …という話を新聞で読んで、ボクも「えっ」と思った。
 この〈目から鱗の指摘〉を紹介したのは、総合研究大学院大教授の池内了さん。
 紹介されたのは橋口公一(九州大学名誉教授)さんの論説。
 『学術の動向』という日本学術会議の雑誌に載っていたという。

 なぜかぼくは、そのお堅い雑誌の2013年9月号を、わざわざ取り寄せて読んだ。気まぐれには違いない、たまには(固い豆腐の角に頭をぶつけてみようか)と思った。
 論説のタイトルは…。

「農業再生に向けて、率直に認めるべき農業不適地・日本」

 〈はじめに〉で、まず「日本は農業に向いている」というのが、じつは「無根拠な精神論に基づく全くの誤解」とバッサリ切り捨てる。
 そのときボクの目の前で、二宮金次郎の石像がグラッと傾いだ気がする。つまり、この論説にボクはそんな予感を嗅ぎとっていたのかもしれなかった。

 次に〈農業に不適な高温多湿の気候風土〉で、「日本を含むアジアモンスーン地帯の農業は、高温多湿ゆえに雑草・害虫との闘いの歴史」と喝破し、そのために「農薬散布機、施肥機を使って農薬、肥料をフンダンに散布」、「育苗施設、代搔き機、田植機、農薬、肥料投入のための無駄な経費」がかかり、なにしろ始めからお終いまで「多大な時間と労力」の集積ではないかという。
 いまでも、補助金漬の日本の農業・農民を頭から愚弄してやまない、怒阿呆な輩が少なくない。ボクは百姓の倅ではないけれども、そんなふうにホザかれるとムカッとくるのを抑えられない。

 橋口さんの説はもちろん、そんな連中の肩をもつものではない。真逆である。

 「農業は炭酸同化作用を活用する」、「光りのエネルギー(熱=蒸し暑さではない)」が重要な鍵になる産業。
 だから、「向いている気候条件は“涼しいお天気の日が多い”ことで、高温多湿より低温低湿が望ましい」。「雨が多く厚い曇り空に阻まれて多湿な日本は、欧米に比して日照率が低い」から、ぜんぜん不利である。
 しかも地球温暖化が進むなかで「新潟に稲の高温障害が出始め、米どころは最北の北海道に移りつつある」のだ。

 カリフォルニアなど外国産ジャポニカ米の品質も、技術や品質の改良があってここ数年ますます良くなり、「やっぱり外米」と貶せるレベルではなくなってきた。
 そうなれば、あちらは広大な土地に「種籾を航空散播」、日本でそんなことをすれば「高温多湿ゆえに威勢よく繁殖する雑草や害虫にやられて」しまうだろう。
 このようにスタートからして大きい手間ひま・諸費用の差が、収穫までにはさらに数層倍に積み重なることになる。
 さらに、「アジアモンスーン気候ゆえにしばしば台風、集中豪雨に襲われ、また、活発な地殻変動によりしばしば巨大地震に襲われて、甚大な国道崩壊が繰り返される」。

 つまり“瑞穂の国”の呼び名が理不尽なのだった。
 旧態依然、非科学的な押し付けが続いて、いつのまにか誰も不思議にさえ思わなくなってしまったものか。もはや信仰に近いといっていいかも知れない。
 その上に立って、「なのに何故日本の農産物は高いのか、農民、農業関係者はサボっているんじゃないか、ならば止めてしまえ、輸入すればいいじゃないか」という世の中になってしまった。
 そうして、手入れされることなく放棄された農地、ひいては国土が荒廃に向かっている。

 このままに、工業一本に頼って「農業をこれ以上切り捨てることは、食糧危機は元より、只でも恵まれない自然環境が破滅的な崩壊に向かうことに繋がり、取り返しのつかない負の遺産を後世に残すことになる」。
 したがって、これからあるべき日本の農業を考えるときには、安易な思い込みや美化をやめ、グローバルな視野と科学的な考察から、真に日本の風土に見あった方策をとっていくこと。
 少なくとも、耕作面積・経営規模の拡大や6次産業化などでは到底、経済的にも、諸外国の農業には太刀打ちできないことを、熟知しておかなければならない。
 それには「諸外国にも増して、強力な農業支援が必要であること」、それに対する「国民の理解を求めることが不可欠」だという。

 ボクが、恥ずかしながら(自分の頭はボンクラだ)と、いまひとつうまくマワってくれない…と思うのは、こういうときだ。
 うちわたす田園に緑の稲穂がみごとに出揃った風景、あるいは黄金色の稲穂が重たげに頭を垂れる刈り入れどきの美しさ。
 その影にある農業者たちの日頃の労苦を見知ってきたくせに、どこかでボクもまた豊葦原“瑞穂の国”の神話にハマってしまっていたからだ。
 (原発の“安全神話”などテンから信じなかったボクなのに…)

 鱗が落ちてみれば“瑞穂の国”などという呼称も、開拓地・辺地・原野に多く見られる「豊」や「栄」地名と同じ“切ない願望の美称”だったことに、イマ思いイタル。 
 
*写真は、豊葦原“瑞穂の国”の稔りの秋(山形県真室川町にて)*