どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

出陣学徒壮行の地、消えゆく都営アパート

★2013年12月08日日曜日
★《3.11》フクシマから → 1004日
★オリンピック東京まで → 2420日









 11月28日、木曜日。国立競技場…つづき。

◆“新”聖火台に祈念の“軍靴と鐘”を…

 賛否の声アレコレするなかで、来年夏には解体工事が始まることになっている国立競技場。
 川口鋳物の傑作“聖火台”のことは、すでに述べた。
 まつわる逸話、もう一つ、二つ。

 千駄ヶ谷門のすぐ脇に、マラソン門がある。
 ロードレースのマラソン・競歩競技で選手たちが出入りするための通路は、いうまでもなく一般の入場者通路とは岐れて、スタンド下の競技場出入口へと通じている。

 1964年の東京オリンピック
 甲州街道を舞台にくりひろげられたマラソンでは、20キロすぎから抜けだして独走したエチオピアのアベベが、2時間12分11秒2の世界新記録で圧勝の金メダル。
 真っ先にこのマラソン門を入って競技場大観衆の歓呼を浴びたあと、4分あまり遅れて2位で還ってきたのが日本の円谷幸吉自衛隊体育学校)だった。
 (日本が銀メダル)
 大観衆がまた沸いた…が、すぐその後ろに選手がもう一人。この大会までマラソンの世界最高記録保持者だったイギリスのヒートりー。
 競技場勝負になったトラックで、円谷とヒートりーの余力の差は明らかだった。大観衆の歓呼が悲鳴にかわるなかでの…逆転劇…。
 3位になった円谷の2時間16分22秒8は自己最高記録だった。最後は精根尽き果てて倒れ込んでの銅メダルに、大観衆は気を取り直して温かい拍手を送った。
 …だが円谷自身は、オリンピックの晴れ舞台で、大観衆を前に競技場内で抜き去られた屈辱感が拭いきれなかったといわれる。その後の不調も響いて、ついにみずから死を選ぶことになった。

 そのマラソン門を入ってすぐの左脇に、「出陣学徒壮行の地」碑がぽつねんとある。

 「学徒出陣」は、第二次世界大戦下の1943(昭和18)年、深刻になった兵力不足を補って挙国一致体制を強固にするため、理科系・教員養成系を除く20歳以上の大学生・高専生を、学籍はそのままに軍に入隊させ戦力とした国の措置。
 いまではすでに歴史の空のことながら、戦後すぐ生まれのボクら世代は、回顧上映のニュース映像に見覚えのあることだった。

 戦時のどさくさというやつで、記録・資料が失われているためハッキリとはしないが、6~12万といわれる出陣学徒が戦場にかりだされた。その壮行の場となったのが明治神宮外苑競技場、現在の国立競技場の前身である。
 学帽・学生服姿に銃を担いでトラックを行進、フィールドを埋めた学徒たちを、スタンドから見送ったのは彼らの親兄弟、親族たちだったのだ。
 当時の大学進学率は3%程度だったとを、後でぼくらは知ることになった。国の将来を担う人材として徴兵を猶予されていた学生たちが、ついに戦場へ…。
 (そういう時代があった)ことを伝える碑が、50周年にあたる1993(平成5)年に、ここに建てられた。
 それから、さらに時を経ていま、“新”国立競技場に建て替えられるにあたって、この碑をどうするかはまだ決まっていない。…ということは(いつのまにか忘れられたことにしたい)ということだろう。

 なんでも「遺せ」というボクではない、碑はなくともよい。
 とかく忘れやすい人々のために、かつてあった大きなマチガイの警鐘を、“新”たにしたい。
 新造される聖火台の足元がいい、学徒がフィールドを踏みしめた“軍靴”と(警鐘の)“鐘”をデザインして据えたいと思う。

◆10棟の住民ぼちぼち引っ越して行き…

 国立競技場の南側、青山門と代々木門の間、“スタジアム通”に面して、懐かしく古びた鉄筋コンクリート4階建ての、外壁は剥がれエレベーターもない都営アパートがある。
 2020東京オリンピック招致が決まった後、“新”国立競技場の建設に絡んでいっとき話題になった建物群10棟。都営霞ヶ丘アパートという。
 注目を浴びたわけは、このアパートのそもそもが1964年の東京オリンピック開催の折、いまある国立競技場の改築にともなう立ち退き騒ぎがあって、建てられた過去のいきさつによる。
 
 事前にはなんの話もなくて突然に…いまより遥かにどでかいスタジアムが建つんで、また立ち退けって無茶な話…というわけだった。
 じつは、この都営アパートと競技場の間に、明治公園と日本青年館の建つ一画があるのだが。
 物議を醸した“新”国立競技場の巨大設計がこの一画にまで波及する結果、その余波(ゆとりの広場的空間確保のためとか)を喰らった格好だった。

 その後に規模縮小の方針変更があり、計画からは外されたようだけれども、立ち退き話はそのままになった。例によって住民不在のやり方に問題はのこるが、(このままにはできない)事情もたしかに認めざるをえない。

 居住300世帯(住民の半数以上が66歳超の高齢)の、やむをえない移住・移転はすでに始まっていて、「のこりはあと150世帯くらいかねぇ…」という。
 この日も引越しの車が2台あった。老母を自宅にひきとりに来た人と、近くの都営アパートに移る人。コマーシャルで見るような浮き浮き引越し風景とは、まるっきり別物。

 「年をとるってのは情ねぇもんだ、み~んなよぼよぼになっちまってさ、歯がぽろぽろ欠けてくのを黙って見てるしかねぇような按配だもの」

*写真、(上2枚)はマラソン門脇の「出陣学徒壮行の地」碑と記念植樹「同期の桜」、(中1枚)は明治公園から眺めた国立競技場、(下4枚)は消えゆく“昭和”立ち退きが進む都営霞ヶ丘アパート*