どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

無人のフィールド…夕闇にバーが揺れていた

★2013年12月07日(土曜日)
★《3.11》フクシマから → 1003日
★オリンピック東京まで → 2421日

*きょうは二十四節季の「大雪」、この冬は東京にも大雪のありそな気配*
*南アフリカの病的悪弊“アパルトヘイト”を治癒した人、マンデラ元大統領が亡くなった。「虹の国」実現への道のりはまだ長そうだけれど発展“途上”への道には入れた。流れは止まらないし、留められもしない*
*ニッポンでは、足腰過信の安倍政権がつんのめりながら特定秘密保護法案を成立。高い支持率を与え続けてきた国民にも、勢い余って勝手にのめっちまった体制にはお手上げだし、犠牲になってまで支える義理もない*
*青森の津軽では弘南鉄道に「忘年列車」登場。津軽鉄道の「ストーブ列車」とともに地吹雪の野面に懸命の熱い気を吐く。いよいよ師走*

 11月27日、木曜日。国立競技場の景-中幕-。

 あれは1963年のいつごろだったか、いまはもう覚えていないが、そのとき大学受験浪人(青春前期・鬱屈期)だったボクはある日、予備校をサボって神宮外苑に遊んだ。
 翌年に迫ったオリンピック開催を控えて、どこにもかしこにも槌音、あちこちに高く響いて、いやがうえにも昂奮を盛り上げていた頃だった。

 国立競技場も突貫の工事中で…あれはきっとスタンドの増設とか設備の改修とかでもあったろう…いまほど警備も厳重ではなかったとみえて咎める人もないまま、ぽっかり開けたトンネルのようなところを辿って行ったら、目の前にルージュみたいに赤っぽいアンツーカー、不意うちに跳びだして吃驚、胸キュン。
 なんとボクは、国立競技場のトラックに侵入してしまっていたのだった。

 暮れかかる夕空をバックに、怪鳥が巨大な翼を広げたように圧倒的なスタンドの影。
 そんな夢幻のごときフィールドの一画、スポットがあたったような薄明のなかに、ぽつんとひとつ高く、棒高跳びのバーが微かに風に揺れていた……。

 なぜか棒高跳びという競技に、ボクが興味を魅かれたきっかけは“棒につかまって跳び越える”ことだった。竹のポールが忍者を想わせたせいもあろう。
 中学に進んだら、体育の教師に棒高跳びの元オリンピック候補だった人がいた。“竹の時代”棒高跳びは日本期待の競技でもあった。
 同期の陸上部に棒高跳びを始める友がでて、彼は最新のグラスファイバー・ポールを披露した。
 羨ましくも革命的なできごとで、このときからボクのなかで、棒高跳びは忍者技から競技へと飛躍したのだった。

 63年のプレ・オリンピック。
 棒高跳びで優勝したのはドン・ブラッグというアメリカの選手で、前回のオリンピック・ローマ大会でも4m70で金メダル。彼はまた4m80という当時の世界記録保持者でもあった。
 彼のポールは金属製で、跳躍の瞬間、100キロという彼の体重がかかるとポッキリ折れそうに(実際によく折れもしたらしい)撓み、それからおもむろにバーの上へと重い体を押し上げたものである。棒高跳びは加速力と筋腕力と道具力(ポールの反発力)とで高く跳ぶことを競う、近代的な個人総合競技になっていた。
 このときもバーは、フィールドの孤高な中空で微かに揺れていたのを忘れない。

 しかし翌年、東京オリンピックの本番晴れ舞台にドン・ブラッグはいなかった。国内予選で敗れたか、ナニかあったのだろう。
 なにしろ、それまでオリンピックで14連勝中という、棒高跳びはアメリカの得意種目。選手層も厚かった。時は進む…。

 東京オリンピック棒高跳び競技は、出場選手全員がグラスファイバー・ポールで跳んだ。
 このときのヒーローはフレッド・ハンセン、もちろんアメリカ。
 ラインハルト(ドイツ)との間に繰り広げられた5時間半におよぶサバイバル・ゲーム、いまも名勝負のひとつとして語り伝えられる闘いにうち勝った彼は、5m10のオリンピック新記録でアメリカの15連勝を成し遂げた。
 競技終了の22時、孤高のバーはこのときもまた微かに風に揺れていた…。

 そうしていま、棒高跳びは6m時代の真っただ中にある。