どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

雀色に…ふと…「誰そ彼」るとき

★2013年11月21日(木曜日)
★《3.11》フクシマから →  987日
★オリンピック東京まで → 2437日



(…ふと…)という感じがすきだ。
 なんかしらんトクしたような気分にしてくれる。

 「雀色時」ということばが(…ふと…)と浮んだ。
 思いだし探ってみると、中学時代になにかの本で識ったことばだ。
 たぶん、俳諧歳時記だったかと思う。親父さんの本棚にあった本、父は俳句を嗜んでいた。
 ぼくも俳句をとき~たまヒネルが、ずっと嗜むほどにはなれずにいる。

 「雀色時」は「たそがれどき」、もとは「誰ぞ彼」。(…ふと…)人恋しい。
 「暮れなずむ」感じをよく言い表わせている。
 明け方は「かわたれどき」、もとは「彼者誰」。靄っとして、これもいい。

 『夏の思いで』という歌がある。ぼくは「はるかな尾瀬」と憶えている。
 この曲の、歌詞の一節に「しゃくなげ色にたそがれる」という。
 (…ふと…)いい感じに誘われて尾瀬へでかけた…けれどシャクナゲ色には「たそがれ」てくれなかった。

 「雀色」も、ぼくにはもっと鮮やかな色あいで、「なず(泥)む」感じはなかった。
 「たそがれ」は「黄昏」とも書く。これもシックリとはこなかった。
 だから「雀色」も「黄昏」も、ずっとそのまま舞台の袖暗がりにひっこんでいた。

 ぼくは「もっと光を」タイプの明るいのが好きで、でも…明るすぎると影が見えなくなるのが不満だった。
 ぼくは「手さぐり」するしかない暗さもコワイくらい好きで、でも…暗すぎると影が見えなくなるのが不満だった。
 
 「セピア」という色気に写真表現で出逢ったとき、(…ふと…)これだと思った。
 セピアには、明るすぎもせず暗すぎもせず品があって、しかも、本質が透けて見える影をもちあわせていた。

 けれどもボクのセピアは、「イカの墨汁色」でも「黒褐色」でもなく、ましてや「変色した映画フィルムの色」でもなかった。
 いってみれば(…ふと…)艶やかなモノクローム。

 カラーフィルムでモノクロームに撮る、ことに夢中になった時期もあった。
 「究極の明暗」とカッコつけながら、そこに滲んで現れるセピア色の影が、じつは好きなのだった。でも(…ふと…)やっぱりボクのセピアではなかった。

 いのちはずんでいた頃は「たそがれる」のは「くすむ」ことと一緒で、いやだった。
 (子どもの頃ぼくん家にミレーの絵の額がかかっていた。画題は『晩鐘』だったかな、もちろん複製印刷物。麦の落ち穂をひろう農民夫婦のセピアな風景、くすんでいた)

 けれどもいま、いのちいとおしむ頃になってみると、(…ふと…)雀色も黄昏色もシャクナゲ色も、かがやいてきていることに気づく。
 「いいセピアだぜ」
 ぼくは、つぶやく。

*写真は、撮影後に画像処理したセピア、わるくはないけれど…*