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どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

つくり休みいただいています

-No.1262-
★2017年03月06日(月曜日)
★《3.11》フクシマから → 2188日
★ オリンピック東京まで → 1236日

『琵琶湖周航の歌』…かつての学生歌がいまは「終業の歌」になっている、という

-No.1261-
★2017年03月05日日曜日
★《3.11》フクシマから → 2187日
★ オリンピック東京まで → 1237日



◆『琵琶湖周航の歌』

 …といえば加藤登紀子、”とっこちゃん”の唄。
 たしか70年代の初めころに大ヒットしたが、ボニージャックスもペギー葉山も唄っていた。

 ぼくも、この歌が好きで、「旅にしあれば しみじみと…」ひとり水面を見つめていたりすると、ふと口をついてでた。
 ただ、ぼくにはこの唄、滋賀県ご当地ソングなんていうより、もっと遥かな、エキゾチックなイメージをもっていた。
 おなじ加藤登紀子の唄なら『知床旅情』のほうがだんぜん故郷ムードふつふつで、その意味ではむしろ森繁久彌節こそピッタリといえた。

 「われはうみ〔・・〕のこ」で始まる唄には、もうひとつ小学校唱歌があって、あちらは「海」、こちらは「湖」。湘南の海に親しんできた身には、やはり「うみ」は「海」が自然であり、長じて実際に琵琶湖の岸に佇むまでは「湖〔うみ〕」の想いにいたれなかったことが思いだされる。

 この曲が、琵琶湖に面する滋賀県大津市では、〈残業削減〉のための「終業の歌」になっているという話を聞いて(へぇ)と思った。
 夕刻せまるころ役場内に流されている、というのだが。ぼくなんぞには、もっと奥深い想念にひきこまれそうな気がしてならない。
 つまり、このメロディーを聞くと、地元の人はたいがい「帰りたくなる」というのだけれど……
 ぼくだったら、それだけではすまされない、それこそ「旅にしあれば」で、翌くる朝の出勤もおぼつかなくなる気がする。

 あるいは、また、仕事といってもそれが天職であるなら、口をついてでる歌詞は「帰ろかなぁ、帰るのよそうかな」ではなかろうか、と思ったりもする。

 それが琵琶湖畔の大津市では。
 多くの人が、子どものころ母親が手仕事しながら口ずさむ『琵琶湖周航の歌』を聞いて育ち、いまもたとえば宴会を〆るときの曲になっている、という。
 なるほど、郷愁を誘われる曲にはちがいない。

 さらに地元の小学校では、琵琶湖でおこなわれる船上合宿の打ち上げに歌われる、とも聞いた。
 それはそうだろう。
 もともとがこの唄、むかしの第三高等学校(いまの京都大学)漕艇部に属したらしい作詞者が周航中の一夜、想をえたものといわれ、いうまでもない三高の寮歌・学生歌だったのだから。

 それにしても、青春の日の慕情の唄が、いまは終業の唄というのには、ある種、諸行無常の感が漂わなくもない。 

ダイスケくん&彩ちゃん「玄関ハンガー」づくりの記

-No.1260-
★2017年03月04日(土曜日)
★《3.11》フクシマから → 2186日
★ オリンピック東京まで → 1238日




◆吾が「ちっこ房」の最年少生徒

 ダイスケくんは小学2年生。
 木工というのは、お察しのとおり、子ども向きのクラフトではない。
 技術的にも体力的にも易くはないし、知力・工夫もいる、刃物を使うので注意力と集中力もかかせない。

 個性差もあるけれど、とりかかれるのは、まぁおおよそ小学校高学年あたりから。
 子どもと木材とに共通点をもとめるとすれば、ひとすじ縄ではいかない、ことくらいだろう。
 指導する方にも、気の抜けない苦労がある。

 そんな諸条件むずかしいなかで、とにもかくにも、ダイスケくんは木製・ふた付きの「おもちゃ箱」を完成。
 そのことはすでに、去年の夏お話しておいたとおり。
 http://blog.hatena.ne.jp/sashimi-fish1/draft-scat.hatenablog.com/edit?entry=10328749687178943989

 月に1度か2度の個人授業には、お母さんが付き添う。ダイスケくんは、なんといっても、そこはまだ甘ったれな子だ。
 お姉さんのアヤちゃん6年生も、ときどきお母さんについて来ていた。
 そこで、この弟がつくった「おもちゃ箱」の完成を見、達成感を見せつけられ。
 いつのまにか「お姉ちゃんもやってみるかい」てことになった。
 自然のながれというやつで、一人も二人も似たようなものだった。

 そうして、二人合作で、はじめて仕上げたのが、上の写真の「玄関ハンガー」。
 賃貸マンションの壁には「退去時は原状復帰」という制約があるので、造り付けのハンガー板を利用し、それに取り付けるカタチになった。
 四角形に木の板を組み合わせることで強度を保たさせつつ、上段を大人用、下段を子ども用のハンガーに。

 簡単そうに見えるけれど、じつはこれでなかな手がこんでいて。
 造り付けのハンガー板に、上段の板を飾り金具でネジ止めにしてあるだけ。

 ダイスケくんやアヤちゃんには、その工夫のほどまではわかっていないが、まぁいいかぁ……
 いま二人は、次の作品「通学用品台」の製作にとりかかっている。
 じぶんたちのものは、じぶんでつくる。

 お姉さんは、この春から中学生だ。

快生やすみ…いただいてます

-No.1259-
★2017年03月03日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 2185日
★ オリンピック東京まで → 1239日








 

「家守」と「井守」

-No.1258-
★2017年03月02日(木曜日)
★《3.11》フクシマから → 2184日
★ オリンピック東京まで → 1240日






◆ぼくん家にはヤモリ(家守)が棲んでいる

 夜行性で、昼間はとんでもなく狭っくるしい隙間や物陰に潜み隠れており。
 それがまた、向こうも(よもや暴かれまい)と思い、こっちも(まさか居るまい)とタカをくくるような場所。
 そんなところでヒョイと顔などあわせると、なぜか、たがいに一瞬ドギマギしてしまい。
 ぼくは、よろこぶ。そう、正直ウレシイ。

 そうして。
 (いた、いた)と思う間もあらばこそ、そそくさと忍者のごとく、そこらの穴とも見えぬ穴場に素早く隠れて消え。
 ほんにあっぱれ扁平な体は、ささいな壁の間隙とか人の目には判別しかねるほどの僅かな開口とかに、造作もなくみごとに潜り込む。

 運よく捕まえる(うっかりすると向こうから手のうちにとびこんでくることも)ことができた子どものころ、しかしそれがもとで可哀そうに命をおとしたヤモリが何匹かあって、ボクは素手でなく網で捕らえることを覚えた。じつは、この網もデカすぎたわけだけれど…。

 それほどにヤモリの体は柔で、こわれやすく、とても爬虫類とは思えない。
 習性はトカゲとおなじと教わった。危険に遭遇するとみずから尾を切り捨てて逃げるというのだ。が、ぼく自身は、置き去られたヤモリの尻尾がのこされた命のかぎり踠〔もが〕のを見たことがない。
 かわりに天敵の鳥の嘴に咥えられたのは見たことがあり、そのときは切り捨てる隙もなかったものか、尾をぶら下げたまま連れ去られていった……

 とにかく、このように幼気〔いたいけ〕な感情を抱かせる生きものであった。
 たまらなく好きになってしまったキッカケは、微かな湿り気と温もりを伝えてくる足指の先に触れたこと。

 ヤモリの足指には梅鉢型に、疣状の、吸盤ではないが、めいたものがあって、それでガラス窓なんかにも張りつくことができる。天井にもぶら下がれる。
 けれども、性いたって温和というか臆病。人に見つかったら即刻退散を身上とするから、ぼくなんぞまだカメラのレンズにとらえたことがない。
 大きさは広げた手いっぱいくらい、体色は地味な埃色っぽい保護色で、ぼくん家の場所によっては緑がかって見えることもある。

 むかしの人にはふだんの生活場面から親しみがあり、そのつながりから「家守」を縁起物とする風もあって、ぼくなんかも「家守を捕まえてはいけない」といわれて育ったくちだけれど、いまはもっぱら彼らも生きられる好環境がありがたい。

 ぼくん家は、もとは山だったところを削り均して造成した近郊住宅地にある。
 ヤモリというトカゲの仲間は、もともとが主に民家とその周辺に棲息。つまり人家の多いところを好み、郊外の原っぱなんぞには棲めないらしいから、ここが住宅地になってから、ぼくらよりも少し遅れて移ってきたのかも知れない。

 ヤモリは「宮守」とも書いたように、実際お宮とかお寺にも多かった。
 たとえばクモとかワラジムシのような、人にとっては迷惑千万な存在の虫なんかを食べて生きる、つまり有益な存在にもかかわらず、いまどきは「気もちわるい」とかいわれ、不快な生きもの扱いされているとか。
 「およしよ、見てごらん、かわいい顔してるじゃないか」とボクは想う。

 ぼくがヤモリを好きな理由は、もうひとつ、”冬眠”をすることにある。
 寒さが苦手なぼくは、冬眠という命を守る究極の行為を愛してやまない、冬眠する生物すべてに投げキッス!

 ……………

 このヤモリと似た雰囲気をもつ生きものに、イモリ(井守)がいる。
 名前もカタチも大きさもたしかに近いが、両者はおおきに違う。
 ヤモリは爬虫類、イモリは両生類。
 
 生き方で違うのは、ヤモリは一生を水に入らずにすごすし、イモリのように変態もしない。
 さらに大きいのは再生能力のちがいで、ヤモリの再生は尻尾の皮・肉までにかぎられるが、イモリの場合は骨まで完璧に再生、ほかの部位でも驚くほどに高い、ほとんど蘇生に近いほどの再生能力をもつ。
 もっと違うのは体色で、イモリは「アカハラ」とも呼ばれるように腹部が毒々しいほどに赤い。もちろん警戒・警告色、もちろん猛毒もちで、それはフグ毒で有名なテトロドトキシン。襲われたりすると、横ざまに倒れ、体を反らせて、警戒・警告の赤腹を見せつける。

 まぁそれだって、某国の大統領みたいに、はじめっから警告色もあらわに恫喝するのにくらべたら、はるかに同情の余地はあるわけだが。
 どうもボクは、イモリの方にはなじみが薄いせいもあって、もうしわけないけれども好きになれない。
 もちろん、ぼくん家に棲んでもいない。

 ボクが青春時代をすごした頃までは、「イモリの黒焼き」なる怪しげな”惚れ薬”と称するものが堂々と売られていた。
 ところが、これもじつは、ネタ元の中国では「ヤモリの黒焼き」であったという。
 それを勝手に日本人が、たぶん「(アカハラ)イモリの方が利きそうだ」というのでとり違えてしまったと見える。
 どうも人間というヤツは、わからない……と、ヤモリ(家守)やイモリ(井守)なら言うことだろう。

「あんた、それじゃ定九郎だよ」と…おっ母さんが呆れたぼくの剛い頭髪

-No.1257-
★2017年03月01日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 2183日
★ オリンピック東京まで → 1241日




◆目に刺さるハリガネ

「あんた、それじゃ定九郎だよ」
 おっ母さんの呆れかえった声に、もちろん非難の響きがあった。
「なんだぃ、その、定九郎って」
 わけがわからず、ぼく、ムクレる。

「(仮名手本)忠臣蔵の五段目でね」
 おっ母さんの説明だと、山賊そのままの敵役〔かたきやく〕
 雨の、闇夜の西国、山崎街道で強盗をはたらき、相手を殺めて奪った金が50両。このとき殺されたのが、あの「おかる・勘平」の「おかる」の父親、与市兵衛で…。
 その後すぐに、勘平の鉄砲玉にあたってあえない最後、という段取りになる、まぁ芝居の本筋にはほとんど関係のない、ただのワル。

 にもかかわらず人気の役どころだった、というところまで、はたしてこのときのおっ母さんに、そんな意識があったとは思えない。
 (やだよ、よしとくれ)の底意が見え見え。

 とにかく、素浪人くずれの盗賊という役どころの、斧定九郎。頭の、ぼうぼうに伸び放題の月代〔さかやき〕がほんに怖ろしげな。歌舞伎で用いられる百日鬘〔かずら〕というやつがヒールなイメージをきわだてる。
 座して裁縫のおっ母さん、見上げるボクの頭が(ソレだよ…まるで)と言っている。

 ぼくが、じぶんの頭髪が半端じゃなしに剛〔こわ〕く、ボリュームもたっぷりなのを、はじめて悟らされたのは近所の床屋で。
 店主の親爺さんはもっぱら大人のお客さんが相手で、ぼくらガキの頭を刈るのは奥さんの役目だった。その奥さん、同級生の子の親でおっ母さんとは保護者会(ぼくらの頃は父兄会と呼んだ)仲間でもあったから、遠慮もなしに。「すごいわねぇ、おとなも顔負けだゎ」はまだ序ノ口で、決定的なのは、短いところを散髪すると毛が「目に刺さりそう」という台詞。子ども心を引き裂きおって…。
 
 しかし、この事実には自身もナットク、床屋のおばさんメガネをしていてよかったと思ったくらいで。
 中学で私立の仏教校に進学することになったときには、その学校の規則で坊主刈り。坊ちゃん刈りの頭にバリカンをあてられると無念の涙が零れたが。
 そんな人の気も知らないおばさん澄ました顔で、「いいじゃない、さっぱりした頭で勉強に実が入るわ」ときたもんだ。

 高校に進んで髪を伸ばしてもいいことになると、よろこび勇んで蓬髪に戻った。
 伸び盛りは頭髪にもおよんで、リキッドで撫でつけたくらいじゃとても埒が明かない。ポマードなんぞご法度だったから、とどのつまりは学帽でキツく押えつけておくしかなくて、剛髪はその下から外へ溢れ出た。

「いやだ、あんた定九郎じゃないか」
 おっ母さんを呆気にとらせ、ぼくには嫌味なかぎりだった言葉は、ちょうどその頃、そろそろいっちょ前に色気づいてきてもいたボクに、どんな影響をおよぼしたか。
 …というと、格別どうということもなく、つまり極めて生理的かつ個人的なことで。柔らかい長髪を指で優雅に掻きあげる男友だちを羨んだって、どうなることでもなかったのだが。

 歌舞伎界における定九郎さん事情には変化があって。
 従来のむさくるしい山賊型から、黒羽二重の着流しに白塗りの肌というワルの二枚目型、ドキッとするほど色っぽい拵えの役柄にして大向こうをうならせたのが、初代中村仲蔵という人。それからは、この仲蔵のくふうした拵えが定九郎の定番になったとか。
 その頃のぼくは、歌舞伎を知らないし観る金もなかったのだ、けれども……
 そこはよくしたもので寄席が好きだったおかげで、古典落語の『中村仲蔵』という噺から、彼の役づくりの顛末を知るにいたった。
 初代中村仲蔵といば江戸中期の役者である。

 すると、これはぜんたい、どういうことか。
 おっ母さんの頭に、そんな色悪な定九郎像があったとは思えないし、ぼくを見る目もけしてウットリなんかしてなかった。
 …ということは、おっ母さんのイメージに棲みついた定九郎像というのは、絵入り草紙本の影響か。
 あるいは、ほんものの歌舞伎ではない、田舎芝居の舞台でも観たものだろうか……

 ともあれ。
 かつては人騒がせだったボクの剛い頭髪。
 旅人になると自然、手間のかからないスポーツ刈りになって落ち着くことになり。
 いまでは、あのハリガネ髪はどこへやら、短髪でも少し伸びると寝癖がつくようになってしまった。

古い読書人、デスクトップ文房の必需品「不審紙」/ボクもふと使ってみたい誘惑にかられた

-No.1256-
★2017年02月28日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 2182日
★ オリンピック東京まで → 1242日




◆「付箋」の先祖は「不審紙」だった

 寺田寅彦、最晩年の随筆集『柿の種』(岩波文庫、1996年)を読んでいたら、「不審紙〔ふしんがみ〕」という不審な表題の一編に遭遇した。まったくのところ「ぶつかってしまった」感じで、読んでみるまでてんで腑に落ちなかった。

 明治・大正・昭和の物理学者で、随筆家にして俳人夏目漱石一門の筆頭弟子というより、もっとも親しい友人だった寺田寅彦(1878~1935)の著作は、その警抜な着想と思考回路がおもしろくて若いときにずいぶん読んだが、この「不審紙」には覚えがなかった。

 寺田自身「子供の時分に漢籍など読むとき」とことわっており、「よく意味のわからない箇所にしるしをつけておく」ための、「あとで先生に聞いたり字引きで調べたりするときの栞」といっているから、どうやら現在の付箋のようなもの、とは分かるが、いっこうに実態がつかみきれない。

 したがって、寺田の言わんとするところを嚙み砕いて説明もできないから、少し長くなるけれども師の文をそのまま引用してみる。
「短冊形〔たんざくがた〕に切った朱唐紙〔しゅとうし〕小片の一端から前歯で約数平方ミリメートルぐらいの面積の細片を噛み切り、それを舌の尖端に載っけたのを、右の拇指の爪〔つめ〕の上端に近い部分に写し取っておいて、今度はその爪を書物のページの上に押しつけ、ちょうど蚤〔のみ〕をつぶすような工合にこの微細な朱唐紙の切片を紙面に貼り付ける。」という。

 これすなわち不審紙で、不審の箇所につける紙片のこと、とするが、なお付け加えて。
「嚙み切る時に赤い紙の表を上にして噛み切り、それをそのまま舌に移し次に爪に移して張り付けるとちょうど赤い表が本のペ-ジで上に向くのである。朱唐紙は色が裏へ抜けていなかったから裏は赤くなかったのである。」
 懸命に、その在りようを正確に伝えようともがいているところをみると、すでに不審紙の珍しい存在になっていたらしい世相が透けてくる。

 それでいて寺田先生、それを愉しんでいる風でもあるのは、流石で。
「不審が氷解すればそこの不審紙を爪のさきで軽く引っ掻いてはがしてしまう。本物の朱唐紙だとちっともあとが残らない。」
 追憶の幻像を懐かしむ……

 ぼくの親爺さんは明治も末の生まれで、宝生流謡曲を習い、自身も舞台にあがった人。和綴じの謡曲本に鉛筆で、注意点や強弱表現の調子どころなど記していたものだが、不審紙の経験が幼少の頃にあったかどうか。
 ぼくも父親にならって鉛筆で、余白に細かい字で書きこみをしたり、傍線を引いたりしたが。とどのつまりは、新時代の蛍光マーカーで本を汚しまくったくち。
 ただし、これは後の寺田先生も同じことだったらしい。

 ところで。
 こんな古ねた、いまどきのネット情報にはまさかあるまいと思ったら、アッタ!
 しかも、言葉の説明だけでなしに、幅1センチほどの色紙を使う、とまで記されていた。

 江戸後期の文政6(1823)年に、大蔵虎光(狂言大蔵流7世)が著した『狂言不審紙』という狂言の難解語句注釈本があったことまで出ていて驚いた。もちろんボクは知る由もなく。

 もっと驚いたのは、吉川英治『忘れ残りの記』の文例がとりあげられていたこと。
 じつは、この本。
 ぼくが小学校の図書室から借りて読んだ『宮本武蔵』で、その作者吉川英治を知り、あれこれ興味をひかれるままに読み漁った著作の、なかでも身近な人となりが識れた想い出の1冊。そのなかに、

「あの和書の中へ点々と貼った紅梅みたいな朱唐紙の色だけには、子供心にも優雅なものを感じたりした」
 と記述があったというのだが。

 しかし、なにしろもう昔のことで、いまとなってはどうにも、とりつくしまもない。
 たぶん、なんのことやら分からないままに捨て置きにして、そのさきへ読みすすんでしまったということだろう、不審紙も貼らずに……

 そんなぼくは、いま。
 不審紙の現代版「付箋」、「ポスト・イット」というやつのお世話になって書物を汚すことから免れているのだけれど。
 あれも糊の具合によって出来不出来があり、さすが本家本元の3M製は糊のこりが少ない。
 そこまで気にするボクは、やっぱりかなりの文房好きにちがいなく、若い頃は銀座の伊東屋へ足しげく通った。
 
 …で、ふと気づけば。 
 もし手に入るものなら(まぁ結局のところ無駄かも知れないけれど)、ちょとためしてみたい気がしているボクが、そこにいるのだった。

つくり休みいただいています

-No.1255-
★2017年02月27日(月曜日)
★《3.11》フクシマから → 2181日
★ オリンピック東京まで → 1243日

ギンヤンマはふつうのトンボとは格が段ちがい/  いってみれば若大将のような存在だった

-No.1254-
★2017年02月26日日曜日
★《3.11》フクシマから → 2180日
★ オリンピック東京まで → 1244日

*陽ざしが春めいてきた…と思ったら、17日には春一番の風が吹いた。ぼくも春迎えの準備、プランターに花の種を蒔いた*


   

◆ギンヤンマの腰が眩しい

 「懐子」という表現がある。「ふところご」と読む。
 「懐児」と書いたほうがいいかも知れない。

 「ふところに抱くほどの幼な児」の意から「たいせつにいつくしむ子」、「秘蔵っ子」のことをも表わす。
 けれども、いまはほとんどつかわれることがない。
 日本語も表現の多様性をうしなっていくことになると……さて、どうなるか……ちょと、お寒い気もする。

 なにかの映像、どこぞの里山とおぼしき水田に、大型のトンボが高速で翔びこんくる。
 …と見る間に、翅のうごきをみごとにコントロールして、安定感にみちたホバリング
 オスプレイとかいう、空飛ぶ人間の造り物が恥ずかしいくらい。

 7センチくらいの体長にくらべて、5センチはあるだろう長い翅が陽に輝く。
 それから、その輝きが腰の水色に移って澄明な銀色に透ける……
 瞬間、ぼくは「懐子」を想った。

 ぼくにとってギンヤンマは、「だ~い好き」とも「いとしい」とも違う、そう、ほかでもない「懐子」そのまま。
 そうして、水色に輝く緊った腰をもつのは、オス。その輝きを讃えて「ギン」と呼んだ。

 ギンヤンマは、複眼をもつ頭から胸にかけてが黄緑色で、腹部から尾にかけてが茶褐色。その間の腰の色で雌雄がわかれ。
 オスの水色に対してメスは胸部とおなじ黄緑色で、ぼくら川崎っ子たちのあいだではなぜかしら「チャン」と呼ばれていた。
 
 メスは腰の色でオスと区別したが、翅の色もオスにくらべてクスんでいた。
 トンボ捕りの初歩では「ギン」も「チャン」もなく追いかけたものだが、長ずるにしたがってオスの「ギン」、腰の水色が陽に輝くオスに集中するようになるのは、子どもなりの、いま思えば美学であった。
 その頃の子どもの美学では、オニヤンマが大将「畏敬」の存在だったのに対して、ギンヤンマは若大将「親敬」ともいうべき存在といっていい。

 捕まえた「ギン」は翅を傷めないように、人差指と中指、中指と薬指の間に挟んで虫篭まで運んだ。

 交尾期のトンボが番〔つがい〕になったとき、オス・メス連結したのを捕らえることにも興味をそそられたわけだが、その場合でもシオカラトンボとムギワラトンボの番「トンツ」と、「ギン」「チャン」番の「ヤンツ」ではまるで格が違っていた。
 メスが番の状態で、あるいは単独で、チョンチョンと水草に卵を産みつける姿にしても、ヤンマのそれには威厳があって思わず見とれたものだった。

 いまでも、そのみごとな飛翔とホバリングを夢に見ることが多いギンヤンマだけれど……
 じっさいに、東京の空でお目にかかることはごく稀になってしまった。

血のように深く赤い「赤サバ」…初物を刺身で喰った

-No.1253-
★2017年02月25日(土曜日)
★《3.11》フクシマから → 2179日
★ オリンピック東京まで → 1245日



◆なるほど「血引」だ

 小田急町田店、デパ地下の魚屋を贔屓にしている。
 仕入れがよく、マグロの冷凍・解凍技術にも優れる。
 
 せんじつ、その店頭に、きわだつ赤身を目にしたときには(なんじゃ?)と不審に思った。
 しかし、三枚おろしのフィレは鯨の獣肉っぽい身とも違う。

 近寄ると、よくよく見るほどに赤い身のパックに「赤サバ」の札がかかって。
 「旨い」とわざわざことわっているところが、普段の魚ではない。
 値も高くはない、手ごろだったので食思がうごいた。

 魚喰いで生きて、なお、この歳になっても新物にお目にかかれるのが面映ゆくもあるが、やはりウレシイ。
 (釣りをする人はきっとご承知の魚であろう…)

 マグロの赤身は血を味わうようなものだが、この赤サバも似たふんいきをもっている。
 フィレの身は中まで深みのある血の赤(だが深紅ではない透明感あり)で、血合いのところはもっと紫がかって濃く赤い。
 帰って刺身にして食べたら、これがホンにコリコリと歯ごたえもよく、ばつぐんに旨かった。
 サビの効きもよい…から、こんどはぜひ本山葵を用意したいところダ。

 さっそく素性を調べる。
 Webの『市場魚介類図鑑』に詳しくでていた。
 魚名のハチビキを解〔ほぐ〕すと「は・ちびき」で漢字にすると「葉血引」。
 その「葉」も元は「端」の方と思われ、和歌山あたりではヒメダイのことを「本血引」と呼ぶそうだから、こっちは「偽血引」ということらしい。

 50~70cmにもなるというスズキの仲間だけれど、関東や駿河湾地方では「赤サバ」。
 魚体からすればスマートな流線型のスズキ似ながら、食味はなるほど鯖に近い旨味があって、言い得て妙というやつ。
 どちらかというと温かい海を好む魚で、中層というより低層に近いところを泳いでいるらしい。

 江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には、大意「血の色がよくないので食べる人は少ないし、味もよくはない」とあったが、さて、どんなものだろう。
 マグロのトロが嫌われた(せっかくの赤身ももっぱらネギマ鍋にして喰った)ところをみると、むかしの人はいまにくらべて好みが淡泊だったのかも知れないし、あるいは、いまほど鮮度のよい状態で魚が手に入らなかったせいかも知れない、とも思う。

 口あたりのいい赤サバ(ハチビキ)は、刺身はもちろん鮨に握っても佳いが、バター焼きや塩焼き、煮ても揚げても旨いとか、いい出汁もでるというから汁にしてもよさそうだし、沼津には干物もあるそうな。

 ただし、あくまでも〈地域的な水産物〉ということで、どちらかといえば嗜好品の部類に入るとされるから、お目にかかれたら勿怪の幸い。
 見のがさず食すべし……である。

 
 

 
 

快生やすみ…いただいてます

-No.1252-
★2017年02月24日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 2178日
★ オリンピック東京まで → 1246日



*きょうから「ミレニアム・フライデー」が始まる…という。よろこぶ人もいるだろうが、「関係ない」人も多いにちがいない。現政権のやることは、工業的というか杓子定規というか、どうも画一的で肌の温もり感に欠けることばかり。ここでも、社会の格差が広がること、マチガイないだろう*

一日、わざわざ出かけて「パワーサラダ」なるものを食べてみた!

-No.1251-
★2017年02月23日(木曜日)
★《3.11》フクシマから → 2177日
★ オリンピック東京まで → 1247日





◆サラダで満腹!

 『サラスポンダ』という唄があった。子どもの頃に。
 サラスポンダ サラスポンダ サラスポンダ レッセッセ
 サラスポンダ サラスポンダ サラスポンダ レッセッセ
 オドラオ オドラポンダオ オドラポンダ レッセッセ オセポセオ

 これだけの歌詞である。
 キャンプで唄った覚えがあり、手遊びが組みあわされていたと記憶する。
 オランダの糸繰り唄がレクリエーションソングになったものだという。

 ……………

 いま、サラダの噺をしようとして、ふぃと想いだしただけで他意はない。

 ……………

 サラダについて。
 ぼくは、ずっと不満というか不興に思っていた。
 なんで、もっとシッカリした食べものになってくれないのか!

 ぼくたち子どもの頃までは、主菜・副菜という考えが根底に根づよくあり。
 主菜は魚や肉(主食はいうまでもない米)であり、野菜は副菜という趣きが濃かった。

 やがて、健康志向のたかまりとともに「もっと野菜を食べましょう」という時代になり。
 これまでの和風温野菜の流れに、洋風生野菜サラダが加わったのだ、けれど。
 どうも「付けたし」の域を脱することができずに、テーブルの末席のあたりをうろちょろしていた。
 まだしも「ホウレン草のおひたし」とか「芋の煮っころがし」のほうが存在感があり、サラダは「添えもの」でありつづけた。

 サラダに自覚がたりない。
 料理研究家と呼ばれる人たちは、ナニに遠慮があってモタモタしているのか。

 消化器官に痒みをおぼえるような歯がゆさを感じていたら……
 でました真打、やっと登場という次第。

 パワーサラダ専門店「ハイファイブサラダ」という店が新宿区にできた、との報。
 東京メトロ江戸川橋駅から近いところ、というので、さっそくに、かみさんを誘って中食〔ちゅうじき〕に出かけた。

 ”パワーサラダ”というのは、野菜だけでなしに果物・ナッツ類や肉類なども加えて栄養豊富に、サラダボウルひとつで成人男子でも満腹感が味わえるもの、趣旨はそういうことで。
 実際、女性客が多いといっても、男性客が4割を占めるという。

 「ハイファイブサラダ」、いまのところの基本のメニューは9種類。
 ぼくは「生ハムとミモレットチーズの濃厚サラダ」を注文。喰いたりないかも知れない気分があらわれていて、吾ながら可笑しい。186キロカロリー。
 かみさんは、オーソドックスに「ハイファイブサラダ」。肉・乳類は入っていないが果物やナッツをまじえて彩りゆたか。136キロカロリー。
 幾種類か用意されたドレッシングが選べ、スープも付き、そのスープも大小が選べる、気くばりこまかい。

 サラダボウルは、スーパーなどのカットフルーツ容器とおなじく簡易ながら……
 驚いた! 見た目は軽く完食だったのに。
 食べていくうちに、その意外なボリュームに気圧されるボクがいて、食べおえるころには舌がかったるくなっていたのダ。
 喰いたりない、どころではない、満腹、満足、美味かった。

 開店以来、毎日通ってダイエットに成功した男性客もいる、というのも冗談ではないと知れる。
 ぼくたちは1時間弱で席を立ったけれど、隣りのテーブルの先客、若いカップルはおしゃべりを愉しみながら、ぼくたちより後までサラダタイムをすごしていた。

 (これはいい、家でもやってみよう)と思ったが。
 これをつくる役目は、やっぱりボクになるのだろう、なんとなくそんな気がして。
 鼻のあたまをボリボリしているところダ。


 
 









 

「上士幌まるごと見本市」というイベントがあった/〝移住〟と〝ふるさと納税〟勧誘の催しを考える

-No.1250-
★2017年02月22日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 2176日
★ オリンピック東京まで → 1248日




◆上士幌まるごと見本市

 昨年11月の2週間を北海道十勝の上士幌町ですごした。
 「ちょこっと暮らし体験」という”移住”の勧めに参加してみた。
 十勝の晩秋体験のはずが、はやばやと積雪、あてのちがった初冬体験になって、帰京した。

 その上士幌町から、「お立ち寄りください」と案内があって出かけた。
 ところは日本橋箱崎に近い地下鉄半蔵門線「水天宮前」駅に直結した東京ロイヤルパークホテル。
 シティーホテルの催事場ワンフロアを借りきっての1日がかりのイベントである。
 観光課の人、コンシェルジュのお嬢さんのほか、顔見知りも少なくない。

 上士幌町は、こうした催しを毎年、東京だけでなく各地で開いている。
 この町は、十勝圏の町村で唯一、人口減に歯どめをかけて増加に転じさせており、ふるさと納税額でも上位の成績をあげている。
 「上士幌まるごと見本市」は、その名乗りどおり、世代・目的別の移住相談コーナーあり、「ふるさと納税大感謝祭」と銘うったグルメエリアあり、と賑々しく。
 ぼくたちも「アクティブシニア移住セミナー」に参加させてもらった。

 世をあげて「不信の時代」という。
 都会暮らしの「利便」が、じつは「孤独と閉塞感」に裏うちされていることもあり。
 都心では、北海道を筆頭に地方自治体アンテナショップの売り上げが右肩上がり、ともいわれる。

 しかし、一方で。
 総務省が1月末に発表したデータ(住民基本台帳に基づく2016年の人口移動報告)によれば、東京・神奈川・埼玉・千葉の東京圏の”転入超過”は、その数が減少したとはいえ21年連続、一極集中に変わりはなく。
 ほかの転入超過組も、愛知・大阪・福岡とすべて都会を抱える府県ばかり。
 のこる40道府県はすべて”転出超過”の、なかでも最多は北海道という現実がある。

 政府が目標に掲げた東京圏の転入・転出、2020年には均衡化させるなど土台無理な話しだし。
 現状は極端にすぎるとしても、このような都市と田舎の構図はごく自然、とも言える。

 それにしても……だ。
 田舎の地方自治体がその存在をアピールするには、こうして大枚の金をかけ、大都会に宣伝攻勢をかけねばならない。
 片や、東京を筆頭とする大都会の方は、そこを動かずとも、向こうからやって来てくれることでアピールが成りたってしまう。
 この不均衡というよりもハッキリ”格差”は、思えば思うほどアンマリだし。
 これをどうにかすることこそが政治の課題、構想の力というものだろう。

 ともあれ。
 大都市はこうして、肥え太って生きのこり、しかし行く末は確実に”滅びゆくまま”なのだけれど……

 見本市の会場には、上士幌という町をこんどはじめて知った人もあれば、ぼくたちのようにすでに町を訪れた経験があって「さて…」と思案中の人もあり。
 どこか懐かしい空気と、悩ましさが交錯しているのだった。

 いまごろの十勝、その原野では-20度を超える日々がある……

  

 

教室の席順「前列」と「後列」のチガイにみる/  チョッとしたお付き合いの人模様

-No.1249-
★2017年02月21日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 2175日
★ オリンピック東京まで → 1249日



◆キミはうしろ、ボクまえのほう

 高校の同期会があった。
 場所は神田司町、地下鉄淡路町の駅から近い居酒屋「みますや」で、この店の主も同期生。
 いまは「都内最古の老舗居酒屋」として人気がある。

 こんどの集まりには、土佐高知から上京したSくんと連れだって行ったのだが。
 店の格子戸の前には順番待ちの客の姿があって、あいかわらずの繁盛、まずはめでたい。

 毎度、30人ちかい同期生が集まる。
 齢70を超え、しぜん話題は病い系とお薬系に傾く。

 学生時分からの仲好しが寄さる、いっぽうで、「アレ誰だっけ」という存在があったりもする。
 なにげない世間話をしながら探りをいれ、ひょんなことから(あぁ)と思いあたることもあれば、苦労の甲斐なく詮索はまた次会にもちこしになることもある。
 ぼくにも、もう5~6年も(誰だっけ)状態の、いまさら姓名を尋ねることもできない同期生が複数、存在する。
 よくしたもので、この思いはみな同じと見え、こっそり情報交換することでめでたく解明にいたることもあったりする。

 ボクという人間は、そもそもが得手勝手なのだろうか、どうも人の名がなかなか覚えられない。
 なにかしら印象にのこれば覚えて忘れないのだが、世の中そんな人ばかりじゃない。わっかってはいるが。

 Sくんは、ボクなんかより人の名の覚えがよい、とボクは思っていたので。
 さりげなく、久闊を叙してテーブルをまわるSくんを目で追っていたのだけれど。
 どうも、その顔つき、話しぶり、仕草や態度からは、ボクのとまどいに似たものが察せられ。
 会合の後で尋ねたら、やっぱり「アレ誰だっけ」が少なからずあったらしい。

 また、それとは別に親疎のこともあり。
 噺を聞くと、「彼は小さい方だったからね」親しくしていたけれど、「〇〇くんは大きかったから」ほとんど付き合いがなかったという。
 Sくんは小柄であり、ボクは大柄な方だった。
 大きいボクと、小さい彼とが親しくなれたのは「クラブ活動」がきっかけだという。

 つまり、学校では教室での席順が友だち付き合いに大きなウェートを占めており。
 前の(小柄な)方の連中はそのなかで、後ろの(大柄な)連中はそっちの方で、親しい交わりになることが多いのではないか、と。
 もちろん、この両者の間には平均的な中間層もあるわけだ。

 な~るほど、そういうこともあるかな。
 ボクはその方面に頓着しない性質だったから気がつかなかったけれど……
 よくよく想い返してみると、たしかにボクの場合、大柄な人との付き合いがやはり多いようなのであり。
 小柄な人に対してはつい、その方の意識が勝ってしまうようでもあるのだった。

 気づくということには人間、死ぬまでおわりがないと見える。
 するとこれは、はたしていいことか、それともよくないことなのか。
 ボクはふと、万が一、じぶんの認知症に気づいたときの絶望を想った……

 


 

つくり休みいただいています

-No.1248-
★2017年02月20日(月曜日)
★《3.11》フクシマから → 2174日
★ オリンピック東京まで → 1250日